第9話 逆さ男
何しろ『こういう』ことが滅法好きなので、辻村がこの道を歩こうと決めたのはごくごく当然のことであったのだと思う。
夏の宵。
暑さも幾分鳴りを潜め、そぞろ歩きにぴったりの夜である。酒は回っているが、ふらつくほどでもない。
月が綺麗であった。その月光と街灯のおかげで、まるで昼間のような明るさである。
確か、この先の道を曲がったところのはずだ。
あの廃屋があったのは。
「そういや、あそこもなくなったんだよなあ」
口火を切ったのは、新田であった。
お盆休みに、久しぶりに帰省した辻村は、地元の友人と共に飲み歩いていたのである。
その席でのことであった。
「先月だったかなあ。取り壊されたんだよ」
「何の話だ?」
辻村は首を捻った。それだけ言われても、長らく地元を離れていた彼には何のことやらさっぱりである。
「あれだよ、ほら。あのボロ屋」
更に首を捻る辻村に、新田はにやりと口の端を持ち上げる。
「忘れたのか? ほら、あっただろ、小学校の通学路にさぁ~」
そう言いながら、新田は両手を前に垂らし、ゆらゆらと揺らした。そのポーズに辻村はピンとくる。
「あ……あれか! 『逆さ男』の!」
「そうそう」
新田はビールを持ち上げながら、もう一度笑った。
「確か、駐車場になるんだったかな」
「ああ、そうみたいだな」
相づちを打ったのは高村である。
「俺は賛成だ。ああいうのがあると、街の景観にも関わるし、犯罪の温床になる」
「固ってぇなあお前は」
「現にホームレスが入り込んで騒ぎになったこともあったじゃないか。あんなボロ屋を残しておいても、何もいいことはないだろう。駐車場として、地域貢献に努めてもらった方が余程いい」
しかつめらしく高村はそう言った。彼は昔から学級委員長タイプであったが、それは今も健在のようだ。
新田は、手に負えないという風情で肩を竦める。その様子に、辻村もくすりと笑い、ビールを喉に流し込んだ。
通学路に、ひっそりと建つボロ屋。
『逆さ男』はその廃屋に纏わる噂であった。
崩れかけたブロック塀、無数に生えたドクダミや春紫苑。その草むらに埋もれるようにして、半ば崩れかけた家があった。
その、朽ちかけた窓から中を覗くと。
『逆さ男』が、現れるのだという。
ただそれだけの噂であったが、それだけに、酷く印象的であった。
「懐かしいなあ、『逆さ男』」
しみじみと呟いた辻村に賛同するように、新田もふうと息を吐いた。
「……あの家、ガキんときはまじで怖かったよなあ」
辻村は大きく頷いた。
「そもそも外見が迫力満点だったからな。それに加えて、あの噂だろ? そりゃ怖えよ」
「でも、辻村は楽しんでただろ」
高村は心底嫌そうに顔を歪めた。
「覚えているぞ。お前があの家に忍び込もうとして、止めようとした俺たちまで怒られた」
「あったか? そんなこと」
「あった」
「あったな」
旧友二人、同時の肯定には、苦笑いをするしかない辻村である。
辻村は、幼い頃より、そういった怖い話が好きであった。話を自分の中で膨らませ、更に想像するのも好きであった。
『逆さ男』のことを初めて聞いた時も、色々な想像をしたものだ。
『逆さ男』はどんな姿をしているのだろう。血まみれか、はたまた、血の抜けた、青ざめた姿か。『逆さ』というくらいだから、逆さまの姿で現れるのだろうか。それとも、頭が逆さまについていたりするのだろうか。
気になって、居ても立っても居られなくて、確かめようとしたことが、あったような気がする。いや、あった。
――懐かしい。
蘇ってくる記憶に、辻村は思いを馳せた。
「思い出したって顔だな。お前は昔からそうだ。自分に都合の悪いことはすぐに忘れるんだからな」
高村は、どうやら、やや絡み酒のようである。新田がまあまあと宥めに入った。
「あの時のことは水に流してやろうぜ。あの怯えっぷりを思い出せば、それで充分お釣りがくるだろ」
「違いない」
そう言って笑いあう二人に、辻村はまたも首を傾げる。
「怯える?」
「ほら、こいつ都合の悪いことはすぐに忘れるんだ」
「覚えてないのか? まじで?」
新田に問われ、辻村は記憶を反芻する。
確か、小学校高学年のときだったはずだ。『逆さ男』の噂を確かめてやろうと、ふたりが止めるのも聞かず、敷地内に忍び込んで。
朽ちかけた家に近付き。
窓を、覗いて――。
その先は覚えていない。そう告げると、二人は顔を見合わせ、溜息を吐いた。
「犬」
「は?」
「散歩中の犬に吠えられたんだよ、お前。それでビビッて腰抜かしたの!」
新田の言葉に、辻村は頭を抱えた。
今、はっきりと思い出した。そうだ、それでその犬の飼い主にこっぴどく叱られたのだ。
「あー……」
きまり悪げに呻いた辻村にビールを注ぎながら、新田は朗らかに笑った。
「まあ今は街灯も立ってるし、あの辺も明るくなったけどよ。昔は本当に暗くてやな感じだったしな」
「ああ。お前がビビったのも無理はないな」
「勘弁してくれよ……」
ひたすら赤面する辻村である。
「ま、でも、その『逆さ男』も年貢の納め時って奴だ。あのボロ屋はもうないし、『逆さ男』の噂もなくなっちまうんだろうな……」
しみじみとした新田の言葉に、辻村は、つきんと胸の痛みを覚えた。確かに、あの廃屋がなくなれば、『逆さ男』の噂もなくなってしまうのだろう。
それは、なんだか――。
「少し、寂しいよな」
辻村の心の声を代弁するかのように、高村も呟いた。
「まあ、でも、俺は賛成だ。道が明るいのも、あのボロ屋がなくなるのもな」
「相変わらずだな、お前は!」
そうして笑いあい、解散して、帰路につこうという時であった。
あの廃屋に行ってみよう、という考えが、辻村の脳裏に過ぎったのである。
通学路を辿って家まで帰ろう。取り壊された廃屋を見ておくのも一興だ、そう思ってのことであった。
普段は帰省しても、昔の通学路などは殆ど通らない。あの道は、学校に行くのに安全というだけで、実際は遠回りになることが多いのである。
懐かしい道を辿る。
久々に見る風景は、随分と様変わりしていた。小学校の頃とは背丈も違うし、見える範囲も変わっている。実際に無くなった建物も多い代わりに、新しく出来た家なども目についた。それが面白く、同時に切ないような感覚に襲われる。
夏の宵。
暑さも幾分鳴りを潜め、そぞろ歩きにぴったりの夜。
こうして歩いていても、かつて感じた気味の悪さが嘘のようだ。それは、辻村が大人になったということだけが理由ではないはずだ。
道を抜け、ひとつ角を曲がると、見事に広々とした空間が広がっていた。
かつての廃屋跡である。
まだ舗装される前だったようで、むき出しの土の上に、ばらばらと木くずが落ちている状態であった。四隅をロードコーンで囲まれている。まだ本格的な工事は始まっていないのであろう。
明るかった。急ごしらえの常夜灯が、むき出しの土を照らし出している。
辻村はしばし、その前に立ち竦んだ。実際に聞くのと見るのとでは大違いであった。
「まじかよ……」
何もない。平たい土地が広がっている。
これでは、『逆さ男』もひとたまりもないであろう。
死んでしまうのだ。『逆さ男』の噂は。もう誰もあの家に忍び込むこともできないし、窓から中を覗き込むことも叶わない。
それは、酷く寂しいことであった。
「……もういないんだろうなあ、『逆さ男』は」
辻村が、そう呟いた時であった。
耳元で、確かに聞こえたのである。
「今も、いるぞ」
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