第6話 劇場の怪

 照明技師のNさんがまだ駆け出しだった頃の話。


 急病で倒れてしまった先輩の代打で、急遽、とある劇団の照明を担当することになった。

 小屋(芝居を行う小劇場のこと)に到着し、舞台監督と慌ただしく打ち合わせを行う。

 先輩はすでに照明の仕込みも終え、ゲネプロ(リハーサルのこと)も終わり、あとは本番を待つのみ、というところで、倒れてしまったらしい。

 本番まで残り時間わずか。とにかく時間が惜しい、Nさんは調光室に入った。

 キッカケに合わせてボタンを押すだけになっているはずだ、と舞台監督が言っていたとおり、回路も問題なさそうであるし、先輩が残した台本や、照明卓には順番通りにナンバリングがされている。このナンバー通りに操作すれば問題なさそうだ、とNさんは胸をなで下ろしたのだという。


 本番が始まってからしばらくして、Nさんは首を傾げた。

 調光室からは舞台がよく見える。今まさにスポットライトを浴びて役者Aが熱演をふるっている。

 その下手側にひっそりと、もう一人の役者が立っているのである。

 照明はAさんのみを当てるように組まれているので、その役者には光が当たっていない。どうやら若い男性のようである。生成のシャツにサスペンダーつきのズボン。茶色っぽいキャスケットを目深にかぶっているので、表情は分からない。

 もしや照明を組み間違えていたのだろうか、と慌てて台本を見直すも、そのシーンで書かれているのはAさん演じる役のみである。と、いうことは、照明側のミスではないらしい。では、そういう演出なのだろうか。それとも役者の誰かが、出とちり(舞台にでるタイミングを間違えること)をしてしまったのだろうか。

 次のシーンは暗転。照明が着いたときには、その役者はすでにいなかった。役者の出とちりはよくあることである。Nさんもそれ以上は気にせずに、本番を無事に終えたのである。



 異変はその数週間後に起こった。

 別の舞台で照明を担当したときのことである。

 また、光に当たっていない役者がいた。しかも、前回と同じ衣装で、やはり下手側にひっそりと立っている。

 そのときNさんは正式に依頼されている立場であった。

 稽古の際に、役者陣とは顔を合わせているし、どのシーンでどの役者がでるかもしっかり頭に入っている。けれど、そこに立っている役者は、あきらかに出演者ではなかったのだ。


 しかも、それで終わりではなかった。

 その次の舞台も、その次の舞台にも――その役者は現れたのだそうだ。そいつは稽古やゲネプロには現れず、決まって本番だけに現れる。生成のシャツ、サスペンダー付きのズボン、目深にかぶったキャスケット……そしていつも下手側で、ひっそりとそこに立っている。


 さすがに、Nさんも穏やかではない。よく『小屋には出る』というが、場所を変えても現れるのだ。それは、つまり……Nさん自身に憑いている、とそういうことなのではなかろうか。


 神社でお祓いをしても、御利益のあるお札を手に入れても、その役者は現れ続けた。

 何をするでもない。ただ本番に現れるだけではあるが、やはり気味が悪い。しかも、その役者を見るようになってから、無性に気力が萎えることが多くなった。なにかをやろう、としても、体の芯がふにゃけてしまっているかのように、うまく力が入らない。食欲もなくなり、それに比例して体力も落ちた。頻繁に貧血を起こすようになり――。

 本番直前、照明の最後の調整を行っている最中に、ぱたりと倒れてしまった。


 のちに、Nさんはこんな噂を聞いたという。


 照明技師の間で、急な病で倒れる人が多いらしい。しかも、その急病人の代打を行った技師も、同じように倒れてしまう。なにか悪い病気でも流行っているのではないか……。


 Nさんの脳裏に、あのキャスケット姿の役者がよぎった。


 もしかしたら、みんなあれを見たのではなかろうか。Nさんと同じような理由で、倒れてしまったのではなかろうか。


 Nさんは無事に回復し、今も現役で照明技師として活躍している。しかし、もう二度と、代打という形では仕事は受けない、と決めているのだそうだ。



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