第4話 影切り鬼
冬である。
切ないほどの夕焼けが、寂れた遊具に濃い影を落としている。
橙色に染まる世界は、まるで世界から切り取られたかのように静かであった。車の通る音や、風の音すら聞こえない。どこまでもしんと静まり返った空間で、ただブランコのきしむ音だけが、和美の耳の奥に木霊している。
冷たい掌をぎゅうと握り締めて、和美はゆっくりと天を仰いだ。
忘れもしない、十五年前のこと。
和美はこの公園で、約束を、した。
冬の日の夕方のことであった。
***
和美は、幼い時分より、どうにも人とうまく付き合えない節があった。
上手く会話ができないのである。
話題を振られても、なんて返そうか迷っているうちに、もう次の話題に移っている。話そうと口を開いても、その時にはもう別の話になっている。そんなことが多々あった。
全く見当違いな事を口走る和美を指さし、同級生は笑ったものだ。
――和美ちゃんって、変なの。
和美は何も言い返すことができなかった。自分が上手く話せないせいで、皆に迷惑をかけていることは分かっていた。何度も直そうと試みても、どうにもうまくいかない。喋ろうとすればするほど、自分と皆の間にズレが生まれていく。
何故皆が普通にできることが、自分にはできないのか。自分は本当に変な子なのではないか。そんなことを悶々と考えるようになり、いつしか和美は、話すことすらできなくなっていったのである。
子供は残酷である。話題に乗ってこないどころか、話しもしない女の子が孤立するには、大した時間はかからなかった。
そんな折のことであった。あの子たちと初めて会ったのは。
小学校四年生になった春のことである。
両親が共働きの和美は、所謂『鍵っ子』であった。しかし、その日はたまたま、鍵を忘れて家を出てしまったのである。
それで、迷った挙句、和美は公園に足を向けたのである。
同級生たちが、学校帰りに公園で遊んでいることは、和美も知っていた。もしかしたら、一緒に遊べるかもしれない。仲間に入れてもらえるかもしれない。そんな淡い期待を抱かなかったかと言えば嘘になる。
平たく言えば、和美は友だちが欲しかったのだ。喋る練習も、毎日しっかり行っている。今日こそは、同級生たちと話すのだ。それで、友達になってもらおう、そう思っていた。
放課後の公園は、沢山の子供で溢れかえっていた。そこには、予想通り、和美の同級生たちもいた。
ランドセルを背負い、所在なさげに立ちすくむ和美に気づいたのであろう。皆はちらりとこちらを一瞥し、こそこそと内緒話をした。
和美は目を泳がせた。口の中はカラカラに干上がり、舌が縮こまって動かない。
――何?
酷く険のある響きであった。和美はランドセルの紐をぎゅうと握りしめる。
――何か用?
――言いたいこと、あるなら言えば?
言い募る同級生に、和美は完全に怖じ気付いた。頭の中が真っ白になって、ただひたすらに俯いた。
――最悪。
――気持ち悪い。
――行こうよ。ウジウジ菌が移っちゃう。
ぞろぞろと公園を出て行く同級生たちを追いかけることもできず、和美はただただ下を向き、自らの影を眺めていた。
どうしてこうなってしまうのだろう。ただ一言、遊ぼう、と言えばいいだけだったのに、そんなことも言えない自分が情けなくて、悔しくて、涙が溢れて止まらなかった。
十七時の鐘が鳴り、公園から一人、また一人と子供が姿を消していく。ついに誰もいなくなっても、和美はその場から動けなかった。
夕焼けが、立ちすくむ和美の影を長く伸ばしている。
そんな和美の肩を叩いたのが、あの子たちであった。
――どうしたの?
振り返った先に、いたのである。七人。その全員が知らない子であった。同い年くらいに見えるが、少なくとも和美の同級生ではない。
――ねえ、名前はなんて言うの?
――いっしょに遊ぼうよ。
和美は驚いた。慌てて言葉を紡ごうとしても、やはりうまくいかない。ただ吃音が零れるだけの、この口を、和美は呪った。
この子たちも、同級生と同じように、自分を気持ち悪いと言って笑うだろう。
――喋れないの?
馬鹿にされる。そう覚悟を決めた和美の耳に、信じられない言葉が飛び込んできたのである。
――まあ、いいや。
――そんなことよりさ、早く遊ぼうよ。
それからの毎日は、和美にとって楽しいものであった。オレンジ色の公園で、日が落ちるまで遊び、夜が来るとともに解散する。それが和美の日課になった。
――僕たちも、君といっしょなんだ。
そう言って、友人たちは笑った。
皆遊びの達人であった。鬼ごっこをすればすぐに捕まるし、かくれんぼをすれば探すのもひと苦労だ。他にも、缶蹴り、石蹴り、木登りなど、様々な遊びを行ったものだ。
中でもよく遊んだのは、影切り鬼であった。
ジャンケンをして鬼を決め、鬼以外はみな遊具や木の影に隠れるのである。そして、合図とともに日向に出て行き、次の影に隠れに行く。影から影に移動する間に、捕まってしまったら負けである。
――かずちゃん、影切―った!
友人たちは特にこの遊びが得意で、和美はいつも鬼だった。思い切り走り、友人を追い回しているだけであったが、それでも和美は楽しかった。
友人たちは、和美が話さないことも気にならないようであった。そうこうしているうちに、和美も少しずつ、少しずつではあるが、話せるようになっていった。テンポが遅いのも、会話が上手く行かないのも、皆は笑って流してくれた。
そして夏が過ぎ、秋が来て、冬休みに入った時のことである。
和美の転校が決まった。
父親の転勤で、隣県へ引っ越すことになったのだ。
転校すること、もうじきここへは来られなくなることを、何度伝えようとしたことであろう。それでもやはり上手く話せず、今日話すか、明日話すかと先延ばしにしているうちに、とうとう引っ越し前日になった。
夕焼けが、遊具の影を長く伸ばしている。その夕陽に照らされた公園を、和美は走り回っていた。
影切り鬼をしていたのである。
――かずちゃん、ほら、こっちこっち。
――鬼さん、こちら。
なかなか捕まらない皆を追いかけて、和美は走った。永遠に、この夕焼けが終わらなければいい。ずっとこうして遊んでいたい。どんなにそう願ったであろう。
でも、自分はもう、この場所には来られない。
せっかくできた友だちにも、会えなくなってしまう。
いつの間にか、和美は走るのを止めてしまった。心にのしかかった錘が、和美の足から伸びた影を繋ぎ止めているかのようであった。
立ち止まった和美を見て、友人たちは不思議そうに首を傾げたものだ。
――どうしたの、かずちゃん。
――あ、もしかして疲れた?
和美は首を振った。疲れてなんかいやしない。もっと皆と遊びたい。そう思っても、口が上手く動かない。
――もうそろそろ帰る時間だね。
友人が、空を見上げながらそう言った。橙色の空に、少しずつ藍色が混ざり始めている。幽かに光る星を見て、和美は益々焦った。
――かずちゃん、すぐ捕まっちゃうからなあ。
――しょうがないよ。僕たちには……が……から。
和美は手のひらを握りしめた。
言わなければ。自分はもう、ここには来られないのだときちんと告げて、お別れをしなくては。
――じゃあね、かずちゃん。
――また遊ぼうね。
友人たちが、帰ってしまう。
早く、早く言わなくては!
――ね……。
――え、なあに、かずちゃん。
「……またね」
***
忘れもしない、十五年前のこと。
冬の日の夕方。橙と藍の混じったこの場所で、和美は約束をした。
――うん、またね。
――また、遊ぼう。
そうやって別れたかつての友人たちの顔も、もう覚えていない。けれど。
――しょうがないよ。
――僕たちには……がないから。
随分長い間、こうしている気がする。体が凍り付き、ギシギシと鳴るようであった。
橙色と藍色が混じった空を見つめて、和美はただゆっくりと揺れている。
――和美さんって、変わってるよね。
きっかけは些細な事であった。何か仕事でミスをしたとか、連絡事項を伝え忘れたとか、そんなことであった気がする。
叱られた。それをみんなに笑われた。パニックになった和美を見て、更に笑いは深まった。
あの時と全く同じ環境が戻ってくるのに、大した時間はかからなかった。唯一違っていたことといえば、大人は子供よりももっと親切で、その実陰険であったということだ。
ぎい、と、ブランコが鳴いた。
笑いかけた夕日が、和美の影を長く、長く引き伸ばし――。
――かずちゃん、影、切―った。
永遠に終わらない黄昏の中。
和美は、自分を取り囲む七人の影を、確かに見たような気がした。
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