第2話 墓守
目を開けると、そこには、一面の蕎麦畑が広がっていた。
どんよりと濁った雲の下、さやさやと、寒風を受け流すように、蕎麦が揺れている。
その向こう側、畑の奥には、小さな一軒家が立っていた。
古い家屋であった。濁った雲の重さに耐えきれず、今にも潰れてしまいそうな風情で、ひっそりと佇んでいる。敷地だけは立派な、けれど、古いというだけで特に使い道もない古民家に、今も祖母はいるのだろう。
瞳も見えないほどにしわくちゃな顔を、更にしわくちゃにして。ぽつねんと囲炉裏に座って、ころりころりと猫の背中を撫でているに違いないのだ。
私は、もう一度目を閉じ、そして、開いた。
帰ってきてしまった。
二度と帰らないと決めたこの場所に、私は今、立っている。
祖母は、私の帰宅を訝しむことはなかった。
まるで今日来るのが分かっていたかのように、目を細めて出迎え、そして、私を囲炉裏の前に案内したのである。
囲炉裏には既に火が入れてあり、その炭の赤色が、部屋の内部をうっすらと照らし出していた。昼でも暗いこの家に、目に鮮やかなものと言えば炭火の赤である。昔と全く変わらない様子に、思わず目頭が熱くなる。
囲炉裏のすぐそばで、長々と体を伸ばしているのは、愛猫のミケだ。その隣に腰を下ろすと、私を眠たそうに一瞥し、面倒くさそうににゃおと鳴いた。
手を伸ばし、長く伸びた体をころりと撫でる。
「ミケ、久しぶり」
ころころと手に伝わる感触が心地よかった。ミケはいつでもミケだ。鳴き声も、こちらを一切顧みない愛嬌のなさも記憶にある通りで、私は思わず破顔する。
囲炉裏の手前には土間があって、そこがこの家の台所である。祖母は私に背を向けて、何やら準備をしてくれているようだった。
「おめが来ると思ってな」
そう言って、祖母が出してくれたのは、蕎麦であった。
ああ、やはりな、と私は頷く。
ここに帰ってくれば、蕎麦を食べることになる。それを分かっていたのに、まるで目の前の風景が映画か何かのように感じている。
使い込まれたせいろの上に、こんもりと盛られたざるそば。
私が何も言わなくても、祖母には何もかもお見通しなのだ。
ここに帰ってきて、蕎麦を食べる。
これは、儀式だ。
冷やされた蕎麦猪口に、申し訳程度につゆが入っている。箸で少量掬い上げた蕎麦、その先端につゆを付け、啜るように口に運んだ。
十五年ぶりに食べた蕎麦は、大層美味かった。一口食べれば次が欲しくなる。手打ちの、不揃いの太さの麺が、確かな食感とともに喉に落ち、胃の腑に溜まっていく。
「うめぇか」
「ん」
「今年の春にな、珍しく採れたのよ。だから、きっと、おめが来る、そう思ってな」
「……そうなんだ」
蕎麦畑と言っても、手入れをする者がいるわけではない。いつ、誰が植えたのかもわからないその蕎麦は、花をつけても実を結ばないことがほとんどで、ひょろひょろと背ばかりが高いままに打ち捨てられるのが常である。
しかし、ごく稀に当たり年があるのだという話であった。それが、今年だったようだ。
十五年前、私はこの家に引き取られた。十の時だった。両親を一度に亡くしたのである。
事故であった。
貧乏だった私の家は、夏休みに旅行に出かけたりだとか、そういったことがほとんどない家庭であった。しかし、その年は、珍しく父親が乗り気になって、母親も賛成し、家族旅行が決まったのである。それで、その前に、祖母に顔を見せようということになったのだ。私たちは、意気揚々と車に乗り込んで、そして、事故にあった。私は無事だったが、両親は、助からなかった。
この家に連れてこられて、初めて食べたのも蕎麦であった。祖母が自ら粉を引き、練り、私のために作ってくれたそれは、太さも長さも不揃いで、大層不格好だったけれど、胃に染みわたる美味さだったのをよく覚えている。
私は、祖母に育てられた。
十八で家を出るまで、ずっとこの家で、祖母と、ミケと暮らしていたのである。
まさか、戻ってくることになるとは思わなかったのだ。二度と帰るまいと思っていた、この蕎麦畑のある家に、今、私は座っていて。
あの時と同じように、蕎麦を啜っている。
覚えず、涙が落ちた。肩に、ふわりと温かいものが触れる。祖母の手だった。節立って、真っ黒く、しわくちゃの手。それでもその手は、温かさに溢れていた。
「よく帰ってきたなあ」
そう言って、私の肩を抱く祖母に、私は縋りついた。まるで子どもの頃に戻ったかのように。激しく、泣いた。私をあやすように、祖母の手が背中を行き来する。
「おめはなんも、悪くねえ」
「……ばあちゃん」
「なんも悪くねえよ」
「ごめん、ばあちゃん」
「あやまるでねえ。おめはな、おれの立派な孫だ」
何かふわりとしたものが、私の足に触れた。ミケが喉をころころと鳴らして、私に体を擦り付けている。
「……ミケ」
ミケは小首を傾げて、にゃおと鳴いた。
***
祖母の家で暮らして、最初に言われたことは、『蕎麦畑に入るな』ということであった。
「もし入ったら、おめはおれとおんなじになっちまう」
祖母は、私が畑に近付くのを極端に嫌がった。
私が好奇心に負けて畑に近付いたり、畑のことを口にしたりすると、いつも顔色を変えて叱られたものだった。何故、蕎麦畑に入ってはいけないか、と聞いたこともあった。そんなとき、祖母はミケの背中を撫でて、ぽつりとこう呟くのだ。
「おんなじになっちまうからなあ」
「おんなじ?」
「そ、さ。おめも、ハフリになっちまう」
祖母が、ハフリさんと呼ばれていることは、何となく知っていた。
苗字や名前とは全く違うその呼び方を、不思議に思ったことは何度かあった。その度に祖母に訊ねるのだが、ああ、とか、うん、とか曖昧な返事で濁され、そのうちそういうものだと思うようになった。
祖母は、村中から尊敬されているようであった。いつもハフリさん、と呼ばれ、道を歩くたびに大人が頭を下げる。だから私も、きっと祖母は、村の組合か何かで、そういう風に呼ばれている役職をしているのだ、と、そう思っていたのだ。
予感めいたものを覚えたのは、確か、小学校五年だか、六年だかの頃であった。
新しい学校にも馴染み、何人か友だちも出来た私は、家に友人を招こうと考えたのである。その頃、私たちの学校では、友人の家に行って、その子の部屋でお菓子を食べながら、先生の噂話だとか、恋愛の話だとかをするのが、大層流行っていたのだ。
最初は、皆、喜んでいた。私も嬉しかった。早く皆と一緒に遊びたいと、約束した日が来るのを心待ちにしていたのである。
けれど、その日は、来なかった。約束をしたそのすぐ次の日に、全員から断られたのである。
「ハフリさんちには、行っちゃだめって、お母さんが」
クラスで一番仲良しだと思っていた子が、ぽつりとそう言った。
それから、私はクラスで孤立することとなった。いじめられた、だとか、何か嫌な事をされた、だとか、そういったことではない。前のように一緒に遊んだり、たわいもない話で盛り上がったりすることがなくなった、というだけであった。
けれど、私は大いに落ち込んだ。
祖母には、言い出せなかった。これは言ってはいけないことだ。もし言ったら、祖母は傷つくだろう。そう、確信があった。
中学に進学しても、扱いは変わらなかった。高校にもなれば、慣れっこになってしまった。
卒業後、進学を諦めていた私は、そうそうに就職を決めて、その準備の為に慌ただしい毎日を送っていた。
就職先は、家から少し離れた、別村の、地域密着型の農協である。そこで事務の仕事をすることになっていた。
村から離れたことが良かったのかもしれない。ここでは、私を変な目で見る人は一人もいなかった。皆優しく、おおらかで、温かく、私を可愛がってくれたのである。
そして、引継ぎを終え、いよいよ明日から本格的に働くというときであった。
蕎麦の話を、聞いたのである。
教えてくれたのは、直属の上司だった。
彼は兼業農家で、作物を育てながら、農協での仕事をする。そんな人であった。
「蕎麦はな、栄養がありすぎると、きちんと育たないんよ」
うちには、蕎麦畑があるのだという話をした時のことである。彼は煙草をふかしながら、そう教えてくれたのだ。
私の知る限り、あの畑で蕎麦の実が採れたことはほとんど、ない。両親を亡くした時に、初めて食べた手打ち蕎麦。それが、畑で採れた実を使って作った、唯一のものであった。
あの時と同じように、今度は祖母に、私が打った蕎麦を食べてもらいたい。あの畑で採れた実を使って、育ててくれてありがとう、と、その気持ちをこめて。今度は私が御馳走したい。この時の私は、その考えに囚われていたのである。
『蕎麦畑に入るな』という約束は、未だに生きている。しかし、今回ばかりは許されるのではないかと私は思っていた。なんなら実が生ったら、祖母に懇願し、許しを貰えばいい。それでも駄目ならせめて、収穫した後のことを全て任せてもらえたらいい。
しかし、待てど暮らせど、蕎麦の実は生らず、その背丈ばかりがひょろひょろと伸びていく。
それで、上司に相談してみた、というわけである。
「蕎麦は痩せた土地の方が育てやすいからなあ」
「痩せた、土地ですか」
「ああ。もしかして、肥料たっぷりあげていたりとか、してないかね」
「いえ……」
肥料なんて、あげた覚えがなかった。そもそも、手入れをほとんどしていない畑なのだ。
「そうか、おかしいなあ。比較的育てやすいはずなんだがなあ」
そう呟いて、上司は私をちらりと一瞥し、何かに気付いたように目を見張った。
「そういや、あんた」
「はい」
「もしかして、山の上のハフリさんとこの」
「あ、ええ……祖母はそう呼ばれています」
「そうか、ハフリさんの……」
そう言って上司は、妙にぎこちなく視線を外したのである。
私は、嫌な予感に襲われた。
その時の上司の瞳は、小学生の時の友人と、同じような色をしていた。どこか余所余所しく、一歩線を引くような……。
その予感は当たっていたようで、私は次の日から、職場で妙に冷たくされることが多かった。話しかけても必要最低限しか返事が返ってこない。陰口こそ叩かれることはなかったが、やはりどこか一歩、線を引かれていた。
一度だけ、ほんの一度だけ、祖母に愚痴を言ったことがある。冷たくされている、という話をしたときの祖母の顔は、一生忘れられないだろう。
「ごめんなあ」
大きく顔を歪め、祖母は私を抱き締めて、しばらく震えていた。
「ごめんなあ。おれのせいだなあ」
私は、もう、何も言えなかった。我慢できず、口にしたことが間違いであった。
蕎麦の話をしたのが、いけなかったのだろうか。
ハフリさん、とは、いったい何なのだろうか。
そして、とある嵐の日であった。
その言葉の、意を知ったのは。
祖母が家を空けることになった。
何か義理のある人が亡くなったとかで、二日ほど泊りになる、ということであった。
折しも季節は秋口で、更に悪いことに台風が迫っており、すでに家を揺らすほどの強風が吹き荒れていた。祖母の向かう先は、台風の進路から大きく外れていた。それで私も、気を付けて、といって送り出したのである。
やがて、雨が降り始めた。夜半には家がひっきりなしに揺れ、強雨が雨戸に叩きつけられる音で目が覚めるほどであった。
ミケが怯え、私の布団に潜り込んでくる。その温かな毛玉を抱き締めながら、私もじっと息を潜めていた。
恐ろしかった。もう嵐が怖いような年齢ではないのに、押し寄せる恐怖の感情に、私も翻弄されていた。
今思えば、これこそが予感だったのかもしれない。
台風一過で、からりと晴れた次の日の朝。あれほど怯えていたミケは、晴れたとみると意気揚々と外へ飛び出していった。
この日は仕事も休みだったので、私も家の周りを片づけていたのである。
折れた木の枝や、どこかから飛んできた自転車の車輪、おそらく車を覆っていたのであろう、銀のシート……。散らばっていたそういったものを掻き集めていると、足元になにかふわりとしたものが触れた。
ミケだった。何かを咥えている。
「ミケ、なに食べてるの」
何やら白茶けた、枝のような――。
そして、私は。
――ハフリさん。
――蕎麦はな、栄養がありすぎると、きちんと育たないんよ。
この家を、出る決意を、した。
家を出ると告げても、祖母は何も言わなかった。ただ黙って頷いて、ミケの背中をころりと撫でた。
仕事を辞め、身軽になった私は、逃げるように上京した。
東京での生活は楽しかった。何を見ても新鮮だった。アルバイトだが仕事も始め、そうこうしているうちに、友だちも、恋人もできた。
あっという間に、七年が過ぎた。とても、楽しく、毎日が充実していたのだ。
その、はずであった。
***
ようやく泣き止んだ私は、祖母を引き連れて外に出た。
いつの間にか垂れこめていた雲は薄くなり、真っ赤に燃えているようであった。まるで炭火のようなその夕日に照らされて、蕎麦畑が、てらてらと光っていた。
祖母は目を細めて、蕎麦畑を見つめていた。
「あんときゃ、おれも、一生懸命でな」
「うん」
「おめらがいぬのはおめらの好きだが、子は巻き込んじゃなんねえと」
「……うん」
「すまなかったなあ」
「ううん」
私は自らの腹を撫でる。
――おめらがいぬのはおめらの好きだが。
――子を巻き込んじゃなんねえ。
その通りだ、と私は思う。祖母が私にしてくれたことと、おそらく全く同じことを、私はしたのであろう。
私は、目を閉じた。
後悔していないといえば嘘になる。けれど、この子を殺すことは、どうしたってできなかったのだ。
目を開けると、そこには、蕎麦畑が広がっていた。
寒風にさやさやと揺れ、心地よい音を奏でていた。
「ばあちゃん」
祖母は、いったいどんな気持ちで、十五年。この蕎麦畑を見ていたのであろうか。
「私、この家に戻る」
「そ、け」
祖母は、何もかも承知というように、頷いた。
「んなら、おめが次のハフリだなあ」
「……そうだね」
「うめて、こ」
祖母の言葉に後押しされるように、私は微笑んだ。庭に止めてあった車へと向かい、後部座席に積んでいたあの人を、ずるりと引き出した。
母と、父が眠る、数々のミケが眠る。村人たちが眠る、この蕎麦畑に。私は今日、新たな仲間を加える。
ハフリとしての、初めての仕事であった。
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