ツクモノカタリ【ホラー短編集】
野月よひら
第1話 赤贄
車のドアを叩きつけるように閉め、
鈴村は持参のカメラを握りしめた。プロの物に比べたら、たいしたことのないデジタルカメラであるが、この際仕方ない。こうなってしまっては、自分が写真を撮るしかないだろう。
――なにが、怖いんです、だ。
あれで、プロのカメラマンだというのだから、お笑いだ。
――まったく、世話の焼ける。
車から少し離れた敷地の、その中に立つ荒れ果てた屋敷を見て、鈴村は苦々しく笑った。
ただの、ボロ屋だ。
こんな屋敷の、一体なにが怖いというのだろう。
鈴村は雑誌の記者を
所謂、オカルト雑誌である。
幽霊、妖怪の類は勿論の事、都市伝説の検証、殺人事件の取材など、その手のことを面白おかしく記事にするのが仕事であった。
鈴村は、幽霊の類はまやかしだと思っている。
死んだら、それまで。
幽霊だのなんだの、そんなものは生きている人間の妄想だ。
基本がそんな考えのものだから、彼はどんなところでも飛び込んで取材をするのが常であった。心霊スポット、殺人現場、有名な樹海にも足を踏み入れたし、事故アパートの泊まり込み取材を行ったこともある。
無論、何かを見たり、聞いたりしたことは、一度もない。
これは仕事だ。
面白おかしく記事を書き、読者を楽しませる、一種のショービジネスなのである。
「今度のは、山の奥にある廃屋なんだそうですよ。何でも、子どもの霊が出るのだとかで」
車を運転していたカメラマンの
「編集部に、匿名でかかってきたんだそうで」
「何が」
「電話が」
それが一体、どうしたっていうのだろう。電話でのタレ込みなど、今までだってあったことであるし、特に特別なことではない。
そう述べると、宮脇は心底嫌そうな顔をした。
「違うんですよ。その電話、なんだか気味が悪かったって」
「気味が悪い?」
「ええ。ぼそぼそっとした、陰気な声だったんだそうで」
鈴村は苦笑する。それはそうだ。怖い話をする時に、朗らかに喋る
都心の雑誌社から車を出して、高速に乗ること二時間半。もう何回トンネルをくぐったことだろう。
中部地方に差しかかかっているようである。見渡す限りの山、山、山。鈴村は大きくあくびをした。
新幹線で行けば、時間は半分ですむというのに。全くケチな雑誌社である。
「鈴村さん、噂には聞いてましたけど、本当に怖がらないんですね」
「怖がってたら、仕事にならないだろ」
「そうですけど……」
そうこうしているうちに、高速を降り、車は人気のない道を走っている。
大通りを抜けて小脇にそれ、山へ山へと向かっているようであった。
典型的な田舎道だ。道の両脇には畑や
緑の稜線が、目に眩しかった。降るような蝉の声が、冷房のファンの音と混じり合い、鈴村の耳に届いている。
外は、さぞ暑かろう。
車外に出たときのことを想像しただけで、早くもぐったりとしてしまう鈴村である。
鈴村は、夏が苦手だった。
暑いから、という理由だけではない。
夏は、どうにもごちゃごちゃとしている、という印象がある。音や空気、体温、景色、そういったものが、大鍋に一緒くたに入れられて、ぐらぐら煮られているような気分になるのだ。煮崩れ、形を少しずつ失くし、どろどろと溶け出していく。混ざり合い、何か、別の物に変容してしまう。
そんな感覚に襲われるのである。
「夏なんてなくなればいいのにって思いませんか?」
不意に発せられた宮脇の言葉に、鈴村はぎくりとした。
一瞬、思考を口に出してしまったのかと勘繰るが、どうやらそれは杞憂だったらしい。宮脇は鼻の頭に皺を寄せて、まったく別の事を口にしたのである。
「駄目なんですよ、僕……その」
彼はそう言うと、心底恐ろしいと言った風情で肩を震わせた。そのせいで、車が少し左右に揺れる。ガタついた運転を建て直すように、ハンドルを持ち直すと、彼は大きく溜息をついた。
「……怖い話、が」
「はあ!?」
思わず目を丸くする鈴村である。
「夏になると一斉に、特集とか、組まれるでしょう。本当に、勘弁してほしいですよね」
何を言っているのだ、この男は。これから自分たちがどこに向かっているのか、分かっているのだろうか。
鈴村は眉間に皺を寄せる。
これで、よくオカルト雑誌のカメラマンが務まるものだ、と呟くと、本業はグルメ誌の方なのだということであった。人員不足で急所駆り出されたらしい。
――それは、不憫な。
ある意味彼は被害者なのかもしれなかった。
車は山の奥へ、奥へと進んでいるようであった。
もう道も舗装されていない。がらごろという、土を押しのける振動が、鈴村の尻に伝わった。
雑草をなぎ倒して、車はゆっくりと進んでいる。
夕方が近いせいもあるのかもしれなかった。
さて。
車に引きこもってしまった使えないカメラマンをそのままに、鈴村は慎重に屋敷を観察した。幽霊の類を警戒してではない。こういった廃墟には、鈴村たちの様な輩が入り込むのを防ぐために、監視カメラがついていることも多いのだ。ぐるりと辺りを見渡したが、それらしいものは何も見当たらなかった。
腰のあたりにまでくる雑草をかき分け、鈴村は屋敷に近づいた。
もうじき日も暮れると言うのに、熱心に蝉が鳴いている。流れ落ちる汗と張り付く衣服に舌打ちをしながら、鈴村はその屋敷の前に立ったのである。
屋敷は、半分朽ちかけていた。典型的な、平屋の古民家の作りのようで、随分と、大きい。
一枚、写真を撮った。ムードは満点だ。
いよいよ、内部である。
鈴村は慎重に押戸に手をかけた。鋲つきの扉である。ゆっくりと体重をかけると、ぼろりと木くずが零れた。腐っている。
半分開いたその戸から体を滑り込ませると、つんと
入ってすぐは土間のようである。そこを上がると囲炉裏の間、奥には座敷が続いているようであった。
鈴村は慎重にカメラを構え、写真を撮った。光源が少ない。上手く撮れているかは自信がなかった。
その時。
微かに、硬質の音が聞こえた気がした。
鈴の音のようである。
後ろの、さっき鈴村が入ってきた扉から、聞こえたようであった。
――なんだ?
後ろを振り返っても、何もない。
当たり前だ。
一緒に来ている宮脇は、今頃車の中で震えているだろうし、そもそもこんな山奥に好き好んでこようなんて人は、鈴村たちの様な人種しかいないであろう。
――気のせいか。
囲炉裏の間の撮影を終え、鈴村は目を座敷に向けた。
たわんだ襖で仕切られているそこは、いかにもな空気を漂わせていた。そっと近づいて、襖を動かそうと試みる。
「……くそ」
木が歪んでいるからだろうか、襖はなかなか開かなかった。
ぶわりとした紙からは、黴のような
――気持ち悪い。
幽霊よりも、よほどこちらの方がホラーである。鈴村は思い切って、襖を力任せに引き開けた。
奥は畳敷きの座敷であった。
明らかに痛んでいる畳を歩くのは少し恐ろしかった。穴が開いたらたまったものではない。
ゆっくりと部屋の中央に歩いていく。
何の変哲もない座敷である。
これで、血の跡だとか、人型のシミだとかが出てきたら、面白かったのだが、現実はそう甘くはないようだ。
鈴村はカメラを構えた。
それにしても、何と言う暗さであろう。入り口から離れているからか、暮れかけた斜陽は座敷全体を照らし出すには至らないようであった。
カメラのモードをフラッシュに切り替えて、鈴村はひたすらにシャッターを切った。
――これで、もう十分だ。
あとはこの写真を元に、適当に記事を書けばいい。『廃屋の謎』、いや、それよりも『悲劇! 子どもの霊は何を思う?』か。
見出しの言葉を考えながら、鈴村がカメラを降ろした時であった。
座敷の中央に。
居た。
女の子であった。
ぱつんと切りそろえられたおかっぱで、市松模様の着物に、黒い帯を締めている。
歳の頃は、五、六歳だろうか。
こくんと首を傾げ、こちらを見ていた。
――なんだ、この子は。
感じたのは、苛立ちであった。
なるほど。
雑誌社の、ドッキリだ。こんな山奥に、着物姿の子どもがいるなんて不自然すぎる。きっとこれは自分を驚かせて、もっと面白い記事を書かせよう、と、そういう魂胆なのだろう。
もしかしたら、このタレ込み自体が仕込みだったのかもしれない。だとすると、今頃車の中にいる宮脇もグルか。
乗ってやるのも、一興であるが。
ふむ、と鈴村は考える。
いや、しかし、ここまでの道中の事を考えると、そうは問屋が卸さない。何時間も車に揺られて、こんな僻地までやってきて、汗だくで仕事をしているのである。
流石に、一言言ってやらねば気が済まない。
鈴村は笑った。
「お嬢ちゃん、大人の人はどこかな?」
是非とも問い詰めてやらねばなるまい。そしてあわよくば原稿料を上乗せしてもらおう。
鈴村がそう考えた瞬間であった。
女の子が、笑った。
にいやりと、三日月の形に歪んだ唇に、鈴村は眉を
――おかしい。
こんな年端もいかない子どもが、これほどまでに、暗い笑い方をするものなのだろうか。
ぐんにゃりと顔を歪めて、少女は笑う。そこにはその年頃の子どもの持つ、快活さだとか、溌剌さだとか、そんな言葉は見当たらなかった。
暗く、どこか癇に障るような、ある意味、淫靡と言ってしまってもいいような。
そんな笑みであった。
鈴村は、知らず、唇を舐める。
「ね、お嬢ちゃん。もうおじちゃん分かっちゃったからさ、大人の人がどこにいるのか、教えてくれないかな」
少女は答えない。
笑った顔はそのままに、一歩鈴村に足を近づける。
ちりん、と、音が鳴った。
鈴村は思わず後ずさろうとして――息を呑んだ。
足が、動かない。
全身が、一気に粟立つようであった。
喉元からせり上がるものを飲み込んで、鈴村は必死に足を動かそうと試みる。
無理だ。
動かない。
先程まで聞こえていた、蝉の声も。
聞こえない――何故だ。
静かな。どこまでも静かな空間で。
鈴の音が、ちりりと鳴った。
ぐるりと回る思考の中で、鈴村は、それを、見た。
少女の首。その首に太い縄が巻かれていた。そこから滴る、あれはなんだ。
あの黒い液体は。粘度の高い、ぬらりとした。
少女は一歩、また一歩、鈴村に近づいていく。
ぽたり。
市松模様の着物が、少しずつ、少しずつ、黒に汚されていく。眩暈がした。錆びの匂い。ぐんにゃりと歪む少女の顔が、そのまま渦を巻き始める。鈴村は、動けない。少女が、つうと手を伸ばした。手首に巻かれた太い縄。それがぎりぎりと絞め上げられ、少女のふっくらとした手首に食いこんでいる。ぷつり、と皮膚が裂けた。だらり、と垂れたもの。錆びの匂いが強くなる。だらだらと黒い液体を垂れ流したまま、少女は、笑った。
耳を劈く音がした。
――車の、クラクション。宮脇か。
鈴村は目を見開いた。
体が軽い。
逃げなければ。
最早思考は動かない。
残るのは生物的な本能だ。
本能が、危ないと告げている。
逃げろ。
逃げろ。
弾かれるように、鈴村は駆け出した。
走る。
走る。
何枚もの襖を開けて、鈴村は走った。
――おかしい。
いったいどこまで続いているのか。
そもそも走るほどの距離はなかったはずではなかったか。
喉がひりひりとして、むせそうになるのをこらえながら。
走る。
走る。
鈴の、音がした。
鈴村は後ろを振り返った。
振り返ったことを、後悔した。
女の子は、すぐ後ろにいる。
首をことりと傾げた姿で、しとどに血にまみれている。
足がもつれた。
そのまま座敷に倒れ込む。
ぶわりと、嫌な音がした。
鈴村は慌てて起き上がった。
その目の前に。
女の子は、居た。
笑っていた。
目を、口を、三日月のように歪めながら、少女は笑っていた。その度に、首に巻かれた縄から、じゅう、と滴る黒いもの。手が伸ばされる。ひんやりとした指先が、鈴村の両手に伸ばされる。氷の様な手であった。その手に巻かれた縄からも、ぽたりぽたりと粘って落ちた。歯をむき出して、少女は笑う。そのまま鈴村の両腕を握り。
――ア……タノ…。
あどけない声で。
――……番。
囁いた。
缶珈琲のプルタブを開けられないでいると、横から伸びた宮脇の手がするりとそれを奪い取った。
かしゅり、という小気味のいい音を立て、珈琲の良い香りが車内に漂った。
日は、とうに沈んでしまったようであった。
あれから二人は車に乗りこみ、山を下りて一番近くのマーケットに寄ることにしたのだ。鈴村は震えていた。見かねた宮脇が、こうして珈琲を買ってきてくれた、というわけである。
駐車場は広かった。車もぽつぽつとしか止められていない。もうあらかたピークは過ぎてしまったのであろう。
「はい」
開いた珈琲を渡され、鈴村はそれを震える手で受け取った。
溢さないように慎重に、口元に運び込む。
温かい珈琲だった。夏なのにホットとは、と思わないでもなかったが、それを口にした瞬間、宮脇の心づかいに感じ入ることになった。
体が、冷え切っていたのだ。おそらく肩を借りたときに、彼は鈴村の異常に気付いていたのであろう。
「何があったんですか、って、聞いても大丈夫ですか?」
「ああ、いや……」
鈴村は首を振った。
自分でも、何が起きたのか、分からなかったのだ。
写真を撮っていた。
そしたら、そこに女の子がいて。
追いかけられて。
鈴の音が。
黙っている鈴村に苦笑して、宮脇が呟いた。
「……だから、夏なんてなくなればいいんですよねえ」
「は……?」
「夏は、蓋が開くのに、わざわざ自分からその中を覗き見るようなことをしてしまうんです。やめておいた方がいいといっても、聞きゃしないから」
鈴村の視線に気づいたのであろう、宮脇は鼻の脇を掻いた。
「ああ、いえ。夏は、混じるんですよねえ。だから、僕……苦手なんです」
そう恥ずかしそうに告げる宮脇を見て、鈴村は思わず俯いた。どこか、責められているような気がしたのだ。
もしかしたら。
彼はただ、怖がりなのではなく。
君子危うきに近寄らずの法則で、避けているだけなのかもしれない。
ふと、そう思った。
「……すまない、助かった」
彼に、感謝しなければならない。もしあの時クラクションが鳴らなかったら、鈴村はいったいどうなっていたことだろう。
宮脇は苦笑し、頭を掻いた。
「いえ。ご無事でよかった。……ところで鈴村さん」
不意に、宮脇が眉を寄せた。
「それ、なんですか?」
「それ?」
「その、手のところ。そんな痣、ありましたっけ」
宮脇の視線を追って、鈴村は瞠目した。
そこには。
鈴村の手首には。
ぐるりと。
――アナタノ、番。
縄の跡を、指で辿り。
鈴村は、もう。
今までと同じ夏ではいられないことを。
知ったので、ある。
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