第7話


 高校の校門前には、満開の桜が咲き誇り、風に乗って甘い蜜の香りが漂っていた。

「入学おめでとう。本校は、各界で活躍する大勢の卒業生を出しています。ここに、入学できたのを誇らしく思ってください。成功者とされる卒業生たちの多くは、在学中に成績優秀な生徒たちでした。ですが、私は敢えて新入生の皆さんに伝えたい。ただ単に、授業で習った内容をテストの時に紙の上に再現する能力が、能力のすべてではないという事実を……。時代を切り拓き、大きな変化をもたらす能力は、暗記力よりも創造的知性にあります。どうか、新入生の皆さん。小知才覚を頼みとせず、大きな世界観を持って、学習に励んでください」

 入学式で校長は、新入生を前に祝辞を言葉にした。高校の校長の言葉は、少年が感じていたものに、どこか似ていた。入学式を終えて講堂を出ると、コンサート会場のように生徒たちでごった返していた。

 高校の学舎は、中学校の校舎よりも堂々としていて輝かしかった。生徒たちも、志の高い仲間のように思えると、少年は気分が浮き立った。ここでは有力大学への進学を目指して、勉強に励む生徒だけが集まっているかに思えた。生徒全員がライバルと思うと気が重くなったものの、学習するのに最適環境がそろっているのは有難かった。

 クラスが決まり、教室に行くと真新しい制服に身を包んだ生徒たちが、緊張した面持ちで席に座っていた。小学生の頃から、一学年進級するたびに、階段を一つ上るイメージをしていたが、自分だけ一年間踊り場で足踏みしていたのが恥ずかしくなった。

 クラス担任の横光は、生徒一人一人に前に出て、自己紹介するように促した。

「三年間で志望大学に合格できる実力をつける。世界の名作百冊を読破するのが目標です」

「勉強の合間にスポーツに汗を流したいです。生徒会でも活動して人脈をつくろうと考えています」

「僕は文武両道派です。高校三年間は、勉強と武道を両立させるつもりです。剣道二段ですが、実力を高めて県大会に優勝したいと思います」

 生徒たちは大きな抱負を語り、口々に希望を言葉にしていた。

 授業が始まると、早くも大学進学への期待感で胸が高まった。中学時代と違い、学習内容は難易度が増していた。学問の奥殿へ進むには、一つ一つ重い扉を押し開けて進むしかなかった。それは、勉強によってしか得られない力だった。

 高校に進学すると、少年は町工場での仕事を辞めてアルバイトを始めた。高校に通いながら、毎日の勤務ができないのが理由だった。家計を支えるため、土日に阪神電鉄元町駅前の喫茶店でウエイターをした。

 駅から近く、周辺には商業施設やオフィスがあるので、多くの買い物客や会社員が店に訪れた。

 ウエイターは立ち仕事なので、暇な時間に同じ場所に居続けると太ももが痛くなる。食器の片づけや、掃除などに気を配り、店内を動いている方が楽だった。

 店に着くと、学生ズボンにカッター・シャツ、蝶ネクタイを締めて接客に臨んだ。町工場の作業着と違い、洗練されたムードが逆に窮屈に感じられた。

 客層は会社員が大半で、たまに家族連れが来客し、子どもにオレンジ・ジュースやクリーム・ソーダ、チョコレート・パフェを注文した。店の中は、換気扇を回しても隅々までコーヒー豆の香ばしい匂いが立ち込めていた。店内では、有線放送で店長の好みのジャズが流されていた。

 カウンター席に座るのは、たいてい一人で来た客で、黙々とコーヒーを飲み、席を早く立つ者が多かったが、そこに陣取って店長と雑談しに来る常連客もいた。四人掛けのテーブル席は、ゆったりとスペースを取っていた。店が混雑しているとテーブル席は相席になったが、顧客間のトラブルは皆無だった。

 喫茶店のコーヒー・メニューには、ブレンド・コーヒー、アメリカン・コーヒーの他にカプチーノ、ターキッシュ、ダッチ、カフェ・オ・レ、カフェ・ラテ、エスプレッソ、カフェ・マキアート、シェカラートなどがあり、さらにトースト、サンドウィッチ、パスタなどの軽食、パフェやアイス・クリーム、他の多彩な飲食物を扱っていた。

 店長は、これらのメニューを短時日では覚えきれないのではないかと告げていた。だが、店長の予想に反して、昼休みを利用すると諳んじて言えるまで、少年は記憶した。

 店は混雑し、熱気でむんむんとしていた。席に着いた客から順に、注文が入り始めた。

「すみません」テーブル席の客が、手招きした。

「サンドウィッチ二つと、パスタのボロネーゼ、カルボナーラ、食後にブレンド・コーヒーが二つ、ミルク・ティー、レモン・ティーをそれぞれ一つずつお願いします」

「ご注文を復唱させていただきます」少年が、メモを取らずに暗唱するのを目にして、多くの客は驚きの声を上げた。

 カウンター席の近くに戻ると、店長は

「君は名門校を出ているだけあって頭がいいな」

「ほめてもらえると嬉しいです」少年は嬉しい反面、照れくさくなっていた。

「平日の昼は、近くのオフィスから大勢の客が流れ込んでくる。そういうときに、君がいると大いに助かるが……」

「授業があるので、平日は夕方以降しか働けません」

「長く働いてくれると有難い。君の働きぶりを見ているよ」店長は明るい表情で励ました。

 喫茶店では、閑散時間帯と繁忙時間帯の落差が大きく、暇なときは空席が目立つし、雑談する余裕があった。

 一日の内に何度か、客がゼロになるタイミングがあった。そんなときでも勉強したり、本を読んだりするだけの時間はなかった。暇な時間になって少年が考え事をしていると、一人客が入って来た。

 厨房でコーヒーの支度がすむと、ミルクの入ったピッチャーとともに渡された。少年は、シルバー・トレイに二つを載せて客席に届けた。常連客には、コーヒーだけ飲みに来る客が多かった。彼らは、席に着くとオーダーし、カバンから文庫本を取り出して時間を過ごしたり、店にあるスポーツ紙に目を走らせたりした。

 昼食などの繁忙時間帯は、オーダーを記憶し、奥に伝え、できたものをテーブルに配置した。いくつもの料理を一つの盆に載せて運ぶのには、ちょっとしたコツがあった。毎日が、それの繰り返しとなった。

 店には、様々な客が訪れた。大半はビジネスマンだったが、ファッション・モデル風の美人が来店する日も、学者風の客が何冊もの本を広げて大学ノートに何やら筆記しているのを見かける日もあった。

 心の奥底で少年は、生活のために記憶した内容を応用し、家族や周辺のために役立てる現実感覚こそが、学問でも必須ではないかと考えていた。

 ガタガタと座席を動かす音が聞こえたので少年が目を向けると、中年の人相の悪い男が立ち上がり、手招きした。いかにも不満げな様子に少年は身震いした。

「こんなまずいコーヒーが飲めるか」中年の男性客は罵声を浴びせると「金は払えないからな」と、少年に詰め寄った。

 怒気を含んだ大きな声を耳にして、少年は悪意と獣性に寒気を感じた。

「新しいものと、お取替えしましょうか?」

「何だ?」

「よろしければ、別のものと交換しますが……」平静を装い語り掛けると、男性客は

「もういい」と低い声で凄んだ。さらに「金は払えないからな」と吐き出した。男性客は睨みつけると席を立ち、そそくさと出て行った。

「すみません、お勘定を……」と少年が、ダメもとで言いかけると、店長が近づき

「少し出すタイミングが遅くなっただろ? あの人には、ぬるく感じたのかな」と、肩に手を載せた。

「あんな言い方をしなくても、良さそうなのに」

「客には色々なタイプがある。コーヒーの味わいを楽しみに来る常連もいれば、デートの場所に指定して待ち合わせする者もいる。本を広げて何時間も粘る客もいる。昼休みに毎日、食事に来る会社員や公務員もいるよ。どの客も、店には大事なお客様だ」

「無銭飲食ですよ」

「顔は覚えた。今度やったら通報するよ。ああいう客ばかりだと、店は続かない」

 少年は、男性客の横柄な態度に動揺したものの、店長の何事もなかったかのような態度にも驚かされた。

 店内が暇な時間は、木目の浮き出た重厚感のあるテーブルを濡れた布巾で綺麗に拭いた。店を閉店した後は、換気しながら棚のはたき掛けをし、床を箒と塵取りで清掃した。食べこぼしや、濡れた床は気づいたタイミングで清掃していた。

 終業時刻に見ると、酷く薄汚れている日があった。少年がモップで床を丹念に磨くと、開店前の輝きが蘇った。

 店からの帰りの電車では、多くの会社員と乗り合わせた。ラッシュ時に乗り合わせると、息が詰まりそうになった。

 勉強とアルバイトの両立が辛く思える日もあった。少年は、目的を見失うと、先へは進めない気がした。

 高校では、高い学力水準を求められた。授業だけではなく、テストで高得点を出すには十分な予習をしておく必要を感じた。

 クラスメイトは、少年と違い、小学生のころから進学塾に通っていた生徒が多く、明日香のように裕福な家庭環境で育ってきた者も多いのに気づかされた。

 生徒たちはお互いに友好的、協力的なので、不良たちの陰に怯えて過ごす必要もなく、快適な毎日を過ごした。電車で通学するのも、初めてなので少年には新鮮に思えた。

 少年は背丈が伸び、逞しくなっていた。鏡で見ると、日に焼けた顔立ちは精悍になり、工場で働くうちに胸板も厚くなっていた。

「雄大、ちょっと来いよ」省吾は、新入生の少年を誘い、校内を案内した。図書室や保健室、体育館の場所や、トイレが何か所あるか……、さらに部活の説明をした。

「オリエンテーションの時に聞くだろうから、案内しなくてもいいよ」と、少年が告げても、省吾は楽しそうに先導した。

「学校のことなら、任せておけ」省吾は、明るい表情をしていた。「お前は中学校の成績はトップだった。だが、ここにはお前レベルの連中がワンサカいる。だから、中学と同じように、ここで通用するとは限らない。科学者になる夢を叶えたいなら、ここでも上位に食い込まないとダメだな」

「僕は一年浪人している。並大抵ではない」

「そうかな」省吾は訝しんだ。「卒業すれば、浪人したのは影響なくなるだろ? そこまでが勝負だ」

 少年は前年の受験前のアクシデントで、省吾の後塵を拝していた。巻き返しができるとすれば、何年も先になるのを悔しく思った。

「お前ぐらい根性があれば、一年の遅れぐらい、何とかなるよ」

「僕は、そう気楽に暮らせそうにない」

 家庭環境の厳しさを友人たちは、気づかないかのように接していたが……、少年は――友人たちは薄々気づいている――と、内心で思っていた。

       ※

 少年はエネルギー問題を研究するうちに、オフィス街や歓楽街を見たくなった。都会の電力消費量を考えると、目視で確認したくなった。阪神電鉄の大阪梅田駅で下車すると、地下鉄御堂筋線に乗り換え、本町で下車して周辺を歩いた。

 本町から北浜まで歩き、また本町まで戻って来た。ビジネス街を歩きながら、目標とする科学者への道程の遠さを想像した。少年は、働く人の姿と本町周辺のビルの様子を脳裏に焼き付けるつもりで臨んだ。北浜の証券取引所の前には、――五代友厚の銅像――があった。少年が電気業界で活躍し電力王と呼ばれた――松永安左エ門――の話をしたときに、省吾が「お前の言う松永安左エ門よりも凄い、経済界の重鎮が五大友厚だ。俺が尊敬する人でもある。社会に出たらああいう人になりたい」と、言っていたのを思い出した。

 神戸の三宮や、大阪の梅田周辺にも大きなビルがあったものの、大阪市中央区のオフィス街は背の高いビルが林立し、上階を見上げると首がだるくなった。

 幼少の頃、世界が巨大な迷路のように思え、延々と続く道の先には何があるのか、森の奥地にはどんな生物が潜んでいるのか、海の向こうにはどんな人が住んでいるのか――と想像を膨らませ、胸をときめかせたのを思い出した。

 巨大な世界が、成長と共に小さくなり、矮小なつまらないものに見えたとしたら、想像力が枯れ始めている証になる――と考えていた。

 店に来る客や、電車で乗り合わせる会社員のどれだけの人が――希望――を心に抱いているのかと想像した。少年には、誰もが現実に草臥れて漂流する難民の姿に見えた。

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