第6話


 休日、チャッピーを連れて、公園を散歩していると反対側から、中学校の校長が堂々とした犬を連れて歩いてきた。少年の胸の内に嫌な予感が走った。しかし、犬はしつけられている様子で、チャッピーを見ても動く気配がなく、じっと座ったまま二人の状況を眺めていた。

「君は、雄大君だったね。どうだ? 高校生活は、楽しいか?」

 校長は、担任の夏目から何も聞かされていないのが分かった。少年は、六甲山に登った時に、問題視されたものの校長が善処してくれたのを覚えていた。この人を失望させたくないと思った。

「ええ、まあ。それなりに頑張っています」

「それは良かった。君は、我が校で一番の秀才だった。今が肝心な時だ。気を抜かないで頑張ってくれ」

 少年は、自分が校長に嘘をついたのを情けなく思った。しかも、登山の時を合わせると、二度目の経験だった。

 数日後の夜、少年あてに自宅に電話がかかってきた。母親に言われて、電話口に出ると相手は校長先生だった。

「君に朗報がある。来週でも都合をつけて、お母さんと一緒に学校に来てもらえないか? 来週が無理なら、次の週でも、もっと先でもいい。君に合わせるよ」と告げられた。

 残暑の日差しが強く、自宅から中学校まで歩いていると、汗が流れ出した。

「今頃、何の話があるのかな」と、母親は少年に話しかけた。

 母親と中学校を訪ねて、校長室の引き戸を開けると「ああ、雄大君か、よく来たねえ」と、少年の顔を見てほほ笑んだ。

 校長室には、額縁に入れられた歴代校長の写真が飾られ、書棚には難しそうな教育関連本が並んでいた。窓から外に目を向けると、休み時間の生徒たちがボール遊びなどで、大きな声を上げて楽しそうにしているのが、視界に入って来た。

 校長は、二人を椅子に座らせると、不器用な手つきでお茶を淹れてくれた。「雄大君の抜群の学業成績を考えると、進学を断念させるのは、実に残念だと思うのです。それでね……」と、校長は母親の目の前に資料を広げた。

 母親は、恐縮したように「はあ、そうでしょうか」と、声にした後で大きく目を見開き、校長の指し示す資料の方に前屈みになった。

 資料は、奨学金制度のものと、少年の在学中の学業成績を示すもの、さらに、県内の公立・私立の優秀な高校のパンフレットだった。

 校長は母親に向かって、改めて現状を尋ねると

「雄大君は、単に不運だっただけです。在学中の彼の作文を担任から取り寄せて読んでみました。雄大君は、将来はエネルギー問題を研究し、世の中の役に立ちたい――と力強く、中学生とは思えない筆致で書いていました。このまま、中学卒の職人で終わらせるのは惜しいと、私は思うのです」と、柔和な表情を浮かべた。

「雄大が中学に通っていた時は、先生方にご迷惑ばかりかけていました。本当に無茶ばかりする子です」

「ですがね、お母さん。才気煥発な人間は、子どもの頃から冒険心に富んでいるものですよ」

 校長は、少年の方に向くと彼の本心を問いただした。

「君は、もう、学校で習った内容は、忘れてしまったか? 今からなら、来年の受験に間に合うから、働きながらだときついが、高校に進学しないか? 自信はあるだろう?」

「う、う……ん。どうでしょう? 今、ここで決めないといけませんか?」

 工場では、責任ある立場を短期間で任され、徳さんのような親切な先輩にも恵まれていた。少年は正直なところ、どちらでも良い気がしていた。一人の人間の力では、世界は如何ともしがたい――と、実感していた。――将来は、科学者としてエネルギー問題を解決し、世界平和に貢献したい――と、宣言しようものなら、嘲笑され、誰からも相手にされなくなるのを予感していた。

 僅かな時間、沈黙が部屋の中を支配していた。最初に沈黙を破り、口を開いたのは校長だった。

「君に役に立つ話をしてやろう。先生の子どものころだがね」校長は、目を細めると懐かしそうな表情をした。

「先生の子どもの頃の家も、貧しくてなあ。君の家と違って、両親は大学も出ていなかった。それに、君と同様にやんちゃな子どもだった。お金欲しさに母の財布を見つけて、古いお札や、希少コインを調べて、古銭商に売ったりもした。利益の差額を自分のものにして、母の財布にはお金を戻しておいたよ。だから、誰にも損をかけなかった」

 校長は一息つくと、二人の顔を交互に見た。少年は黙って校長の次の言葉を待った。

「君は、昭和二十六年から三十三年発行のギザギザがついた十円玉が、古銭商で高く売れるのは知っているか?」

「いいえ、知りませんでした」

「だろうな。十円玉は銅貨だから、クエン酸で汚れを落とせる。当時、小学二年生だった先生は、そうして綺麗になった十円玉を古銭商に売って、自分のお小遣いを捻出していた」

「ご苦労されたのですね」母親が声を出したが、校長はそれには反応せず、身を乗り出すと

「先生は、そうやって手に入れたお金で、本を買って読んでいた。君と同様に、中学生の頃に、年齢を偽ってアルバイトした経験もある。だから、雄大君の気持ちが、よく分かる。先生も、成績が良かったから、周りの人たちが助けてくれた。今度は、君が恩恵を受ける番だよ」

       ※

 中学校の校長に励まされて、少年は一度断念していた高校受験の勉強を再開した。中学時代に使っていた参考書や問題集はすべて捨てていたので、自宅近くの古本屋に行って買いそろえた。

 工場での仕事は継続し、平日の午後六時頃に家に帰ると勉強机に向かった。改めて、問題集を解いてみると、以前は簡単に思えていた問題にも、忘れているものが散見された。

 今更ながら、時間が経過すると忘却する内容を受験のためだけに記憶する意義がどこにあるのか――と疑問が湧いたものの、勉強の手を止めるわけにはいかなかった。

 記録手段や通信手段が発達した現代では、知識を記憶するよりも、いかに応用するかの創造的発想が大事に思われた。が、受験当日にピークが来るように記憶し、問題を解く能力を高めておく必要があった。それだけが、前に進むための手段でもあった。

 食事の後片付けや、洗濯や掃除はこれまで通り手伝ったものの、買い物や犬の散歩などは、凛咲に任せた。

 少年が机に向かい勉強していると、チャッピーが近づき、彼の様子をじっと見つめている日が多くなった。チャッピーは時間を忘れて勉強する少年の邪魔をせず、黙って傍らに寝そべっていた。

 休日、凛咲が散歩の時間になり勉強部屋に来ると、チャッピーは少年の方を何度も振り返って、心配そうな表情をして家を出た。時折――チャッピーには、人間の感情が読めるのではないか――と、少年は思った。チャッピーは少年があまり構わなくなっても、勉強部屋に来てじっと座って様子を見ている日があった。

 将来は、エネルギー問題の研究者になる目標が再び、心の支えになった。仕事に慣れていたので複雑な心境になったものの、勉強時間を捻出するには、町工場の仕事を辞めざるを得なくなった。

 町工場に出向くと、工場長に事情を説明し退職が認められた。工場長は、少年の能力を惜しみ「君なら、良い職人になれたのに勿体ないな」と、言いながら「頑張れよ。雄大君の将来が、目覚ましいものになるように応援しているよ」と笑った。

 徳さんは「お前にやるよ」と、ポケットからクロム銅の部品を出して、布袋に入れると少年に手渡した。

 少年は受け取るとすぐに、袋から取り出した。

「これは、俺が加工の時にしくじった部品だ。だから、使い物にならない。でも、悔しくてなあ。同じ失敗をしないように、お守りにしていた。だが、俺にはもう必要がなくなった。雄大にやるから、何か辛いことがあったら、この工場で働いた事を思い出してくれ」

「貰っても、良いのですか?」

「俺のように、肌身離さず持っていなくてもいいよ。机の抽斗にでも仕舞っておいて、辛い時に取り出して見てくれ」

 部品は輝かしい光沢と質感があり、正方形の角の部分は丸く削られ、真ん中に指が二本入る大きさの穴が開いていた。同じ部分に触れると、滑らかなクロム銅の感触が指に心地良かった。ひんやりとしていたが、徳さんと同じ温かみを感じた。

 少年は、袋に入った部品を取り出して、再び大事そうに右手で撫でると、自分の作業着のポケットに入れた。

       ※

 高校受験の当日は、霧雨が降っていた。どんよりと灰色に濁った空は鬱陶しく、重くのしかかっていた。受験会場の教室で指定された席に着くと、少年は窓の外を眺めた。濃い灰色の雨雲が広がり、篠付く雨は、すぐには止む気配がなかった。

 少年の席から、窓の外側を滑り降りる雨粒が見えた。近くの道路を走行する自動車の濡れた路面をタイヤが弾く音が耳に届いた。雨が降ろうと、心の奥まで入り込みはしなかった。むしろ、淫靡な湿り気が明日への扉を開くのを予感させ、少年に奥所へと突き進む勇気を与えていた。

 合格発表を確認するために高校に出向くと、校庭に大きな掲示板があり、入学者選抜試験合格者と記され、受験番号が書かれていた。少年が自分の受験番号を探すと、確かにそこに記されていた。自信はあったものの、何度も振り返って確認した。

 努力の甲斐あって、第一志望の校区ではトップの公立高校に合格した。高校合格を母親も凛咲も小躍りして喜んでくれた。

 母親は――お祝い――と書いた封筒を少年に手渡した。封を開けると、中に十万円が入っていた。

「これは、お前が働いてくれたお金の一部だけど……」と、母親はすまなさそうに告げた。

「必要なものがあれば、買いそろえてあげるから、あなたは勉強をして、大学を目指しなさい」夕飯の時、母親は少年をいつもよりも優しい視線で見つめていた。

 少年には、これからの高校生活の試練が予想できたものの、母親の激励は心の支えになった。明るい見通しは、まだ見えなかったが、努力次第では次の希望につなげられると考えていた。

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