第5話


 憧れていた高校の校舎や教室は、少年には崇高で近寄りがたいものに見えた。重い扉の向こうに着くには、冷然な拒絶を跳ねのけるだけの力が必要だった。

 受験会場の教室内は、満室で独特の熱気に包まれていたものの、誰一人声を出さず、単語帳やポケット版の参考書を開き、覚えた知識の最終確認に余念がない様子だった。

 会場の受験生は皆畏まっていて、様子は、日常と異なる非現実にある異空間に思えた。現実の世界とは何だろう? 今、目の前にある光景がそれなのか? 少年は胸の中に鳴り響く問いかけに即答できなかった。

 高校に合格しさえすれば、すべての望みが叶いそうな気がしていた。少年は教室に並ぶ、どの生徒にも自分は負けていないと信じていた。左手が思うように動かせれば、問題なかった。そこに一縷の望みを託していた。

 試験官は用紙を配り終えると、注意事項を伝えた。試験開始が告げられると、椅子を引くガタガタという音が聞こえた。少年は、写真のついた受験票を机の通路側に置きなおすと、問題用紙を表に向けた。利き手をギプスで固定している上、左ひじに微かな痛みを感じながら試験問題に臨んだ。国語、数学、社会、理科、英語とテスト問題を解き続けたが、慣れない左手では、運筆力が弱く、力のない乱れた文字で解答した。

 緊張感は周囲に伝染していく。受験生たちは問題を見て自分の頭の中にある回答を用紙に記述するのに余念がない様子だった。

 試験官が席の近くに来ると、同情心に満ちた優しい視線を向けていた。少年には、気持ちが嬉しくもあり、悲しくもあった。

 一問でも多く解けるよう念じながら、少年は深呼吸した。ハンデを負いながら受験に臨むのは、飛び込み台から身を躍らせる気分だった。

 択一式は、あまり手に負担がかからなかったものの、記述式の時は精神を集中し、喘ぎながら問題を解いた。問題用紙の解答が頭に思い浮かぶにもかかわらず、早く書けない苛立ちに悩んでいた。

 それでも、受験日まで少年は、自宅で時間を計測しながら左手で書く練習を重ねていた。前日まで、どう早く記述しても、全体の六割の解答に届かなかったが、受験当日は額に汗を流しながら、七割を超える問題の空欄を時間内に埋めた。

 受験が終わった時は、奇跡にも思えたものの、少年の胸の内には虚無感があった。英語などの記述問題では、理解できる問題でも十分に解答できなかったし、あせりもあった。

 答案を眺めた時は、合格するわけがないと落胆したものの、合格発表の日までは、何かとてつもない奇跡が起きないかと、期待しながら待ち続けた。

 念ずれば通ずる――というが、現実は甘くなかった。少年は、志望校に落ちていた。家には私立を受験するだけの金銭面の余裕はなかった。さらに、浪人を強いられると、せっかくの奨学金もふいになるのを悟った。

 合格発表の当日、自暴自棄になった少年は、自宅にある参考書や問題集をビリビリと片端から破り捨てた。そうすれば、自分の夢と決別できると考えていた。いったい自分の中に、どれほどの涙が内在しているのかと想像した。

 ポケットには、気を紛らわせるのに必要な一枚のガムもなかった。かといって、小銭をかき集めて購入する気もしなかった。

 雑踏を歩いていても、道行く人たちが、環境汚染にも、退屈で苦悩に満ちている人生にも、興味が持てずに生ける屍のようにうろつく姿に見えた。愛想のよい振る舞いや、善良さが欺瞞に思えると辛くなった。それらはすべて、少年の心模様を外に写し見たものに他ならないのに気づきつつも、彼にはどうしようもなかった。

 運命のせいにしたくなかったものの、少年は――自分が何か運に見放され幸運をもたらす女神の怒りをかっただろうか――と、思いをめぐらした。むしろ、神に憎まれるのは自分を陥れた――あいつら――でなければならないと思った。

       ※

 人生と生活という観点から考えると、自分の人生を深く考える必要を感じながらも、少年は目前の生活を大事にしなければ成立しないものでもあるのを知っていた。

 中学を卒業した少年は、骨折した腕が完治すると、町工場で働き始めた。同じ工場には、不良グループの仲間だった宏樹が就職していたので、気まずい雰囲気になった。威嚇されるたびに、腐れ縁がいつまで続くのかと暗澹たる気分になった。

 時給は県の最低賃金と同額だったが、毎月安定的な収入が入ったので、母親は少年を労うと「ありがとうね。ありがとうね」と、何度も声に出して喜んだ。

 雨の日は、濃紺色のトタンを張り巡らせた工場の外壁は、鬱陶しくもみすぼらしくも見えた。今頃、中学の同級生たちは、高校の教室で授業を受け、将来に大きな希望を思い描いているだろう――と想像すると、嫌な気分になる日もあった。

 工場の中では、職人たちが機械を慣れた手つきで操作し、部品を加工していた。大きな機械は、白銀色の表面に部屋の明かりを鈍く反射し、無機質な怪物のように作業場にでんと構えて存在していた。

 場内は絶えずガーッ、ガーッという大きな機械音と、ハンマーで叩くトン、トンという音とが響き合い、身体を近づけないと声が届きにくいタイミングがあった。

 同じ班の先輩工員で班長の徳さんは「ここで働いていると、仕事に必要な知識が身に着く。仕入先や販売先は、工場では分かりにくいが、少なくとも、手に職がつく。いずれ俺は、独立起業してここより会社を大きくするつもりでいる。志のある人間でないと、ここでは成長できない。雄大も、覚悟を決めて頑張れ」と、わが身に置き換えて少年を激励した。

 徳さんが腕まくりした時の剥き出しの筋肉は、太く逞しく彫刻の裸像のごとく卑猥にくびれており、血管が浮き出して見えた。少年には徳さんの腕が、大人の男性の目もくらむばかりの強さを象徴して見えた。徳さんが話すときの胸に響く低い声や男っぽい接し方は、憧れでありながらも、真似ができそうもなかった。

 工場では、金属・樹脂部品の切削加工の仕事に従事し、工員の作業を手伝った。少年は、工員の作業手順を目で見て、頭に完全に想起できるまで覚え、時間を見つけては、手を動かしながら繰り返し真似た。

 早朝の工場の空気はひんやりとしていて、開店前のレストランのように人の姿を見かけない。前日の凄まじい音や熱気の欠片をみつけるのも不可能だった。あと一時間もすれば、作業場で起きる喧騒を予感させるものは何一つ存在しなかった。

 少年がどんなに朝早く出勤しても、作業場に徳さんがいて熱心に機械の点検や調整を行い、部品を手にしては様々な角度から眺めていた。彼は、町工場の中で誰よりも研究熱心で勤勉でもあった。

 従業員たちは、朝早くから夕方まで作業場で機械に向き合い、数多くの部品を製造していた。

 徳さんは要領がよく、手際も優れていた。

「俺は、授業が分からなくて……。勉強が一番嫌いだった」と、打ち明けられ、少年は、学校での学習能力と無関係に、徳さんのような頭の良い人が存在するのを不思議に思っていた。

「お前は素質がある。俺には雄大が、類まれなる逸材だと分かる。辛抱して頑張れば、工場の一番の職人になれる。楽しみだな」

「どうして、分かるのですか?」

「機械や部品を見るときの顔つきで気構えが分かるし、話をしていると頭の良さも理解できる」

「頭の良さですか?」

「物覚えや、要領の良さと言ってもいい」

 徳さんの指摘した通り、最初は難しそうに思えていた作業が、日を追うにつれて自分でもできるようになった。少年の物覚えの良さと、要領の良さに他の工員たちは驚いていた。ほめるものがいた半面で、手際の良さをねたみ、彼を悪く言うものもでてきた。

 切削加工は、単刃工具で旋盤作業を行う平削りや形削り作業と、多刃工具で行う、穴あけ、溝削り、肩削り、平面削り、ねじ立てなど、作業工程も機械も異なるので、細かな手順を正確に覚えて再現するのに、誰もが苦労していた。

 少年は、毎日の作業で作られた部品が、自動車や航空機の内燃機関や、電気信号を送る光ファイバーにも利用され、産業の役に立つものであるのを誇らしく思っていた。

 少年は、昼休みになると母親の手作り弁当とお茶を抱えて、工場から徒歩で片道十五分もかかる波止場まで出向いた。そこで潮風に吹かれながら、港の様子や海に停泊する船を眺めて時間を過ごした。

 紺色の海を風がなでつけると、白い波が立った。港に船が近づく時の汽笛の音を聞くと、子どもの頃に父親に連れられて、海沿いの公園に来た思い出が蘇った。

 海の水は、地球を循環する体液の有様で豊富に存在していながらも、飲用水として供給できない難物にも思えた。それでいて、波の強大な力は、海流発電というエネルギー供給手段に用いるのも可能だった。少年は、海の光景を見ているうちに、日本でも黒潮を有効活用した海流発電の候補地が存在していたのを思い出した。

 自分たちの製造した部品が、大きな船のどの部分に使われているのか――と、想像するのも楽しかった。工場で作られる様々な部品は、原動機に組み立てられ、力学的エネルギーとして世界を動かしていた。

 世界は大きくて広く、謎に満ちているかに思えた。少年は、町工場で働きながらも、世界の広がりや人々の暮らしに思いを馳せた。さらに、蟻のように、狭い空間を見つめて暮らすのはつまらなく思えていた。

 夏は、魅惑的な太陽の日差しに焦がされ、汗まみれの汚れた肉体をそよ風の力が癒してくれた。家に帰ると冷たいシャワーが、火照った心身を宥めてくれた。冬は凍てつく寒さに打ちのめされても、湯船に浸かり温まると深奥から湧き出る力が蘇った。 春の日差しに慰められ、秋の涼風に物思いにふける。春夏秋冬の生活の営為は何のためにあり、自分はどこへ向かおうとしているのか――少年は疑問に思うと、容易に出てこない解答に苛立ちを覚える日もあった。

 そんな日は、自分の存在が時空に閉じ込められた小人のごとく思われた。見えない手かせ足かせが外されれば、自在に振舞えるはずだった。

 探求心が救いで、勉強し続ける営為が未知の扉を開いてくれるのを予感していた。が、現状では、高校進学は叶わぬ夢でしかなくなっていた。

 少年は自分の進学の夢を託し、休日には妹の凛咲の勉強を見た。

 母親に頼まれて、市場に買い物に出かけた帰り道に偶然、浩平と出くわした。浩平は、菓子メーカーの工場で働いていた。

「俺の夢は、お菓子工場の経営者だ」と、浩平は打ち明けた。

「浩平は、いいなあ。大きな夢があって」

「夢がなければ、酸素不足の水槽と同じで息苦しくなる。俺はご飯よりもたくさんの夢を食って生きていくつもりだ」

「すぐに満腹になって、動けなくなるぞ」

「相撲の横綱は、大飯食らいだけど、大きな夢を実現しているだろ?」

「浩平は、大人になったら太るな」

「俺が日本一の社長になったら、雄大を雇って、副社長にしてやるよ。期待していればいい」

 浩平は関取のようにしこを踏み、張り手を繰り出しておどけて見せた。

「そんなには、太らないだろ?」

「俺は痩せた横綱だ」

「そう思えば、そう見えてきた」

 少年は、今の自分の夢を語れないもどかしさを感じていた。それでいて、浩平と並んで歩きながら、大きな勇気をもらっていた。

 繁忙期の町工場は、手を休める暇もなかったが仕事を早く覚えるチャンスでもあった。

 三か月が過ぎると、少年は仕事の要領を覚え、十人一組の班長に推された。徳さんは「これからは、お前をライバルとして見るよ。俺も班長になるのが早かったが、一年もかかった。雄大は、俺の最速記録を抜いた。侮れないな」と、笑いながらこつんと、少年の頭を小突いた。

 仕事を終えて、ロッカー・ルームで作業着を着替えると、工場長に控え室に呼び出され「頑張っているな。他の工員の良い手本になる」と褒められた。

 工場長の配慮で給与もアップしてもらえた。班長になり、宏樹の上役になると、この元同級生の態度は従順なものになった。

 少年は、エネルギー問題という巨大な怪物と向き合うのではなく、当たり前の日常を平々凡々と暮らす魅力を感じ始めていた。――科学者になってエネルギー問題、環境汚染問題を研究する――という夢が夢でしかなかったのを確信していた。人から愛される大輪の花でなく、小さな花にも花の価値を見出せると思っていた。

 翌朝、牛乳をコップに入れながら新聞をめくっているとき――オートバイの事故死――の記事に目が釘付けになった。写真の顔にも事故死した男の顔にも見覚えがあった。紛れもなく、中学時代に少年たちを殴った不良グループのリーダーだった。――無免許で知人の大型二輪で国道走行中の事故だ――と、記事には書かれていた。

 読んだ瞬間は――自業自得――というクールな言葉が思い浮かんだものの、頭に生々しい記憶が蘇ると、閉じかけていた傷口が再び開いたような痛みを覚えた。

 少年がトーストを齧りながら考え事をしていると、浩平から電話が架かって来た。

「朝刊を見たか?」

「見たよ。どう考えていいか、頭の整理がつかない」

「あいつ、国道でトラックにぶつかって死んだらしいな」

「まだ、ティーンエイジャーだぞ。可哀そうで……。僕は胸が苦しくなった。元気だったのに」

「可哀そうなものか。あんな奴。俺たちに悪さをするから罰があたった。同情する必要はない。むしろいい気味だろ?」

「彼は太く短く生きた。短い人生を駆け抜けた。でも、いったい何を人生に残した? 何に賭けていた?」

 町工場で、宏樹に「新聞は見たか? 大変だったな」と声をかけると

「あいつは、身勝手な男だった。周りを大声で威嚇して従え、いつも真っ先に走り出していた。まるでブレーキのないクルマだった。俺は、あいつの存在が恐ろしかった」少年が見ると、宏樹の目に恐れの色が浮かんでいた。

「でも、あんな男でも、良い所もあった。まさか、死ぬなんて……。思っていなかった」と、宏樹は胸の内を吐き出した。

「気に病むな」少年が慰めると、

「お前のそういうところが好かん」と、宏樹は立ち上がりざま拳で少年の胸を軽く小突いた。

 少年は、宏樹が町工場では手順を間違えたり、もたもたしたりして、工場長や徳さんから叱声を浴びる様子を見かけた。

「お前は、要領のいい奴だ。逆に、俺は、いつも悪者、除け者だ」

「勝手にしろ。悪いことばかりが、そんなにあるものじゃない――と、僕は思っている」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る