第3話 差し伸べられた手

 久しぶりに風呂にゆっくりと浸かり、疲れが一気に吹っ飛んでいった。風呂から出ると、脱衣所には服が置いてあった。老婦人が置いてくれたのだ。それは男用のもので、僕には少し大きかった。

 服を着たあと、僕は首にタオルを巻いて、キッチンに戻った。老婦人は釜戸で鍋をかき混ぜていた。いい匂いがする。


「さっぱりしたかい?」


 僕に気づいた老婦人が、声をかける。


「うん、まあ」


 と返事をした。


「そうかそうか。それじゃあ、そこの椅子に座ってな。もう少しで温まるから。今日の夕飯の残り物で悪いけど」


 僕は言われるがままに、ダイニングの椅子に座った。

 老婦人がこんなに優しくしてくれなければ、僕は今すぐにでも彼女を殺して、家にあるものを全部奪って去っていったはずだ。

 どうしてこの老婦人は、見ず知らずの僕を恐れないのか。本当に優しい人が、この世界に存在していたのか。全てが信じられなかった。


「おまたせ」


 老婦人は美味しそうなシチューとパンを運んできた。


「さあ、召し上がれ」


 僕は一瞬、毒が入っているのでは無いかと疑った。まあ、入っていても僕には関係ないのだが。僕はチラリと老婦人を見た。彼女は目を細めて微笑んでいた。何一つ悪意を持っていない、穏やかな顔だった。

 僕は我慢できずに、シチューに手をつけた。息付く暇もなく、ガツガツとシチューを口の中に放り込んでいく。手のひらサイズのパンも、二口で食べてしまった。


「ははは、いい食べっぷりだねぇ。ほら、口が汚れているよ」


 老婦人は布巾で僕の口を拭いてくれた。まるで幼い子どもみたいだと、我ながらに呆れた。


「相当お腹がすいていたんだねぇ」


 老婦人は満足そうに言った。


「そういえば、名前はなんて言うんだい?」


 老婦人の質問に、僕は数秒置いてから答える。


「ルディだよ」

「ルディ? それだけかい? 苗字はないのかい?」


 僕は苛立ちながらそっぽを向いて言う。


「ああ、そうだよ。僕に苗字はない。僕は孤児だからね。ルディって名前も、孤児院の誰かが勝手に決めたんだ」

「そうだったのかい。それは可哀想に……」


 老婦人は悲しそうな顔をした。その顔がなんだかムカついた。同情なんか求めてはいない。

 でも、言い返すことは出来なかった。

 僕はスプーンをテーブルに置き、目を伏せる。


「どうして、こんなに優しくしてくれるんだ? 僕は泥棒だ。それにお前を、殺そうとした」


 僕は直球に尋ねた。


「そんなの、あんたが困っていたからに決まっているさ」

「それだけ?」

「ああ、それだけだよ」


 僕は勢いよく立ち上がった。


「そんなのありえない! だって! だって……」


 今まで僕は散々、人々に虐げられてきた。孤児だからといって、ずっと下に見られてきた。あらゆる罵倒や暴力に耐える毎日で、ご飯もお腹いっぱい食べられず、生きていくのに必死だった。

 誰も僕を助けてくれなかった。ほんの一滴の水さえ恵んでくれなかった。

 だからもう、僕は諦めていた。優しさなんて、この世には存在しないと思っていた。


「こんなに優しくされても、僕は何も返せるものを持っていない」


 僕は俯いた。

 僕に寄ってくる人は、誰だって悪意を持っていた。最初は優しい顔をして、でも後から本性を表す。


「ルディ、私は別に、あんたに何かしてもらおうだなんて思ってはいないよ」


 老婦人は優しい口調で言う。

 僕は顔を上げた。


「あんたは随分と、劣悪な環境で育ってきたんだね。私はあんたを助けたいと思ったから助けたんだ。見返りなんて求めちゃいないよ」

「でも……」

「ルディ」


 老婦人の声が、少しだけ強くなる。


「こういう時、なんて言えばいいか分かるかい?」


 僕は答えられなかった。


「ありがとう、だよ」


 老婦人は優しく言った。

 

「それ……だけ?」

「そうだよ。ありがとうって言われるだけで、ああ、やって良かったなって、思えるんだから。でも、別に強制はしないよ。ルディが言いたくなきゃ言わなくていい。私が勝手にしたことだから。強制されたありがとうは、嬉しくもなんともないからねぇ」


 見返りを求めない優しさが、この世界に存在していたなんて、信じられなかった。僕はどうやら、狭すぎる世界で生きていたようだ。

 もしも、もっと早く彼女に出会えていたら、僕はテロを起こさずにすんでいたかもしれない。でも、もう過去は変えられない。僕は罪を背負って生きていかなければならないのだから。

 僕は声をあげて泣いた。老婦人は、僕を優しく抱きしめてくれた。

 それは、初めて触れた人の温もりだった。


「今までよく頑張ったねぇ。どうせ帰る場所もないんだろ? 好きなだけここにいなさい」


 僕は彼女のおかげで、罪を重ねずにすんだ。もし今日、この家に入らなければ、僕はこれからも盗みを働き、人を殺していたかもしれない。それはまるで、奇跡のような出会いだった。

 僕は泣きながら、彼女に言った。


「ありがとう」


 と。


***


 次の日の朝、というより、もう昼だった。目が覚めると、いい匂いが漂っていた。

 こんなにふかふかなベッドで寝たのは初めてだった。思わず毛布に抱きついて、歓喜の声を上げてしまったほどだ。

 体を起こし、匂いがするキッチンの方へと向かう。


「お、おはよう……えっと……」


 そういえば、老婦人の名前を聞いていない。だから、なんて呼べばいいか分からなかった。


「ルディ、おはよう。ぐっすり眠れたかい?」

「あ……うん」

「そうかい。今、パンケーキを焼いているんだ。顔を洗っておいで」

「分かった……あ、あの!」


 僕が声を張り上げると、老婦人は不思議そうに首を傾げた。


「そういえば、お前の……じゃなくて、あなたの名前、聞いていないなと思って」

「ああ、そういえば言っていなかったね。私はテイラー・シュナイダー。みんなにはテイラーおばさんと呼ばれているから、あんたもそう呼んでくれ」


 テイラーおばさん。僕は口の中で数回呟いた。


「お、焼けたようだね。ほら、冷めないうちに食べちゃいましょう」

「うん」


 僕は大きく頷いた。

 幸せな時間だった。テイラーおばさんと過ごした時間は。

 だけど、僕の胸の中はモヤモヤしていた。本当にこれでいいのだろうか。僕は幸せになっていいのだろうか。

 いずれは、テイラーおばさんにも、僕がしてきたことを話さないといけない日が来るかもしれない。

 僕は卑怯者だ。

 だけど今は、今だけは、このままでいたかった。

 



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