ベルガモット

 入り組んだ細い路地に迷い込むように足を進め、行き止まりの半地下にある店の、『Bebe』と小さく書かれた看板の下がる扉をくぐる。

 照明を控えた店内を見回すと、細長いカウンターには、白い襟の高いフリルシャツを着て、背筋のすっと伸びた凛々しい背中。


「こんばんは、ゆかりさん」

「おや、こころちゃん」


 声を掛けると、優雅に振り向く仕草で一つにまとめた長い黒髪がさらりと揺れる。どこのシャンプー使ってるのかな、と思いながら会釈をする。


「お隣いいですか?」

「どうぞ」


 耳に心地よいベルベットのような滑らかな声が私を招く。壁際になっている右隣のスツールに腰かけると、ふわりと優しいベルガモットの香りが届いた。爽やかで清潔感があるのに、ゆかりさんがつけているとなんとなく艶っぽい。

 今日は他にお客さんもいない。ウィスキーのロックを飲んでいたゆかりさんの、切れ長の瞳がちらりと私を見た。あ、その流し目も色っぽい。


「今日も眠れないの?」

「ええ、まあ」

「いらっしゃい、何にします?」


 声を掛けてきたのはバーテンダーの和希かずきさん。軽く撫でつけた黒髪、薄っすら伸びた無精髭が妙に似合ってるワイルドなおじさん。ゆかりさんはこの店のオーナーで、あちこちで手広くお店を展開してるから忙しい。ここで会えたのも久しぶりかもしれない。

 昼間は紅茶の専門店の方に多く顔を出してるから、こっちは和希さんに任せきりなのかもしれない。私も時々そこでアールグレイを買う。


 アールグレイの茶葉にはベルガモットの香り付けがされているから、淹れる時少しだけゆかりさんを思い出す。別にどうこうなりたい訳でもないけど、なんかエロいな、と紅いお茶を見てふと思ってしまう。

 

 寝つきの悪い私は、いつも遅くまでふらふらと出歩いていて、偶然このお店を見つけた。BGMは控えめで、雰囲気は静かなのに陰気ではなくて、落ち着く。最後にここで飲んでから家に帰るとよく眠れる気がする。明日は会社もお休みだから、眠れなくてもそんなに問題はない……けど。


「うーん……眠れそうなやつ」

「じゃあ、ビトウィーン・ザ・シーツ。シーツの間で。寝酒ナイトキャップね」

「へえ」

「和希……そんなのこころちゃんに飲ませないで。眠りたいならお酒じゃなくて蜂蜜と生姜入れたホットミルクの方がいいよ」


 含み笑いの和希さん。まあ、そんなことはどうでもいいの。ただの言葉遊び。シーツの間には私しかいない。後は時々入ってくる隙間風くらい。


「じゃあそうする」

「いい子」


 三十路も近い女が1人でふらふら飲み歩いていて、いい子な訳ないけどゆかりさんの言う事なら聞いてもいい。


「生姜は今ないから少しブランデーでも入れようかね」


 和希さんは軽く肩を竦めて、カウンターの中を移動した。ゆかりさんはグラスの氷をくるくると回してその背中を見送っている。整えられた爪と長い指が綺麗。


「和希も早く落ち着けばいいのにねえ。意味深なことばっかり言って」

「ゆかりさんも独身じゃないですか。お2人は長いんですか?」

「大学の時から。私が誘ったんだけど、水が合ってたみたいだね」


 2人とも年齢不詳だなあ、なんて考えていると、ゆかりさんが「ふふふ」と笑った。


「どうしたんですか?」

「このお店の名前、赤ちゃんとか可愛い子って意味なんだけどね。和希に似合わないな、と思って」

「女の子大好きだからいいんじゃないですか?」

「まあね」


 多分あまり関わっちゃいけないタイプの人なんだろうな、とミルクを温めている背中を見遣る。

 中身のない会話をだらだらするの楽しい。ゆかりさんの低めの声を聞いていると、なんだか眠くなってくる。時々香るベルガモットも眠りを誘う気がする。催眠術でも使ってるのかしら。


「なに?なんの話?」


 和希さんは話しかけてくるタイプの接客なので、積極的にお客さんと会話する。放っておいて欲しい時は察してくれるところもあるからそのバランスがちょうどいい。つくづくやな感じ。こういう人にハマったら厄介なんだろうなあ。


「ん~?和希の想い人のお話」

「俺はみんなの恋人です」

「馬鹿だねえ。ほんとは1人しかいないくせに」

「そういうことにしといてくださいよ先輩」


 悪そうな大人達の含み笑い。親密そうな空気にちょっと妬けるけど、こういうのを眺めているのも悪くない。

 目の前に出されたホットミルクの湯気を見ていると、仄かに香るブランデーがますます気持ちを緩くする。ついつい口まで緩くなる。私は頬杖をついて2人に尋ねた。


「お2人付き合ってるんですか?」

「まさか」

「こいつと?」


 2人同時に返されて、私はちょっと笑った。別にどんな愛の形があってもいいと思うんだけど。


 また静かにドアが開いて、2人組の常連さんが入ってくる。私達の会話はそこで途切れ、和希さんは「じゃあ、こころちゃんはゆかりさんにおまかせ」なんて軽口を叩いて接客の為にそちらへ行ってしまった。


 何?おまかせって。眠れるように子守唄でも歌ってくれるとか?


 温かいミルクを口に含むと優しい甘さが体に沁み込んでくる。鼻に抜けるブランデーのいい香り。

 ほわっと体の力が抜けて、カウンターに寄りかかっていたら、ゆかりさんがひそりと囁いた。


「シーツの間に入れるなら、こころちゃんみたいな子がいいよ」

「………本気にしますよ?」

「してくれたら嬉しいね」


 この人も悪い大人だなあ。


 カウンターの下でそっと絡めてくる指を握り返したら、こっちを見ないまま頬杖をついたゆかりさんがまた小さく笑う。



 ゆかりさん、ほんとの名前はえんさん。

 年齢も性別も不詳だけど、この人のシーツの間ならゆっくり眠れるのかな、なんて、ベルガモットの香りに包まれながら思った。



◇◇◇◇◇


【後記】


匂わせnight

不眠女子こころさんがゆかりさんの性別を知るのはこのあとすぐ。


【セージとラベンダー】和希おじさん出演

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