ボルネオール(竜脳)

【前】

敬語の2人が書きたいなと思ったら少し趣味に走りました。

少々描写が長くなっております。

飽きたら読み飛ばしてください。



◇◇◇◇◇



 王子様なんて来なくていいからずっと眠っていたいと思ったの。

 ゆらゆら揺れる揺り籠みたいな温かい場所で、このままずっと夢を見ていられたらいいのにな、なんて、ただの現実逃避でしかないのは分かっているけれど。


「………、……?大丈夫ですか?」

「……ん……おうじさま……?」

「……生憎王子様でも魔法使いでもありません」


 ゆさゆさと揺さぶられてぼんやり目を開ければ、上半身を抱きかかえる心地良い何かの感触にまた眠りの淵に落ちそうになる。うっすらと漂う墨と木の香り。今日はお習字のお稽古の日だったかしら。


「佐竹……今日は休むわ……」

「佐竹さんでもありませんよ」

「?」


 今度ははっきり耳元で低い声がして、少し意識が浮上する。弘原海わだつみ家の家令はこんな声じゃなかったわね。


 そういえば私、家出したんだった。お父様が急に持ってきた縁談が理不尽すぎて、珍しく言い争いになってしまって……。政略結婚なんて珍しくもないけど、まだ18なのに恋も知らずにお嫁に行くなんて。

 怒りながら着の身着のまま飛び出して、こうなったら自力で生き抜いてやるわって生まれて初めてお仕事を探したの。でも繁華街で男の方が「男の人のお相手するだけの仕事」を紹介してくださるっていうからついて行ったら何やら怪しげな雰囲気で。

 危険を感じて逃げだしたら追いかけられ、振り切って国道をとぼとぼ歩いていたら親切な方が車に乗せてくださったの。そのまま行ける所まで来たのはいいけど、急に豹変したその方にも追いかけられて、山の中まで逃げてきた。

 疲れて何もかもどうでも良くなってしまって。世間知らずな自分にも腹が立つけど、私をいいように利用しようとするお父様や男性たちにもほとほと愛想が尽きた……地面に直に腰を下ろすなんて初めての経験だったけど、もう立っているのも辛くて座ってみたの。冷たくて柔らかい苔の感触は思った以上に心地良くて、そのまま眠ってしまったみたい。

 

「もしもし、聞こえてますか?」


 ぺちぺちと軽く頬を叩かれて、うっすら目を開けたけど、木々の間にぼんやりした大きな黒い影しか見えない。温かいからきっと生き物ね。熊かしら。熊って喋るのかしら?このまま食べられてしまうのもいいかもね、なんて考えて、私はまた目を閉じてしまった。眠い。




「大変失礼いたしました」


 次に目を覚ました私は、古い日本家屋の土間の囲炉裏の前で三つ指ついて頭を下げていた。そのまま黙っていると、パチパチと炭の爆ぜる音だけが響く。少し不安になるくらいの沈黙が続いた後、向かいに座っていた男性が口を開いた。


「……いえ、いいんですけど。顔を上げてください。夕飯を作ったから食べられるなら食べてください」


 私を助けて家まで運んでくださった男性、楽阿弥らくあみ暁徳あきのりと名乗ったその方は、色褪せた紺の作務衣に包まれた大きな身体を揺らして居心地悪そうに胡坐の足を組みかえた。

 お年の頃は30~40代の間くらいかしら。もみあげとお髭がくっついてしまって顔中もじゃもじゃだからお年がよく分からない。眉の間から覗く二重の黒い瞳は深く澄んでいて、穏やかな話し方をなさるから、多分色んな経験を積んだ落ち着いた方だと思うわ。


「ご親切にありがとうございます」

「もう頭を下げないで。さあ、どうぞ」


 差し出された木のお椀は彼の手の中でずいぶん小さく見えたけど、私が受ける取ると両手いっぱいの大きさがあった。美味しそうな湯気を立てるお椀の中には根菜やお肉などがたっぷり入っていて、ずっと何も食べていなかった胃袋が悲鳴のような音を立てた……恥ずかしい。

 赤くなった顔を隠すように俯いて、一度手を合わせてから食べ始めたら、甘いお味噌の香りとお肉の脂の旨味が口の中に広がり、お箸が止まらなくなる。


「お口に合いますか?猟師さんに分けて頂いた熊の肉ですが」

「は、はい。ジビエなら何度か……すみません、こんなお行儀の悪い食べ方……」

「お腹が空いていたのでしょう。ゆっくり食べないと喉に詰まりますよ」


 言われた傍から喉に根菜の欠片が詰まって咳込んでしまった。慌ててお茶を差し出して背中をさすってくれた彼の腕から漂う木の香り。墨独特の竜脳りゅうのうの香が私を包み、気持ちを落ち着かせてくれる。ああ、本当に疲れていたのね、私。


「あの…楽阿弥様はなんのお仕事を?」


 ようやく人心地着いた頃、私は尋ねてみた。こんな人里離れた山奥で、独りでどうやって生計を立てていらっしゃるのかしら、と純粋な疑問からだった。


「苗字は仰々しいから好きじゃないんです。暁徳でいいですよ」

「暁徳様」

「様もいりません」

「いいえ、命の恩人にそんな訳には……!あ、そういえば私、名乗ってませんでした!私……わだ…和田わだ暁良あきらと申します」


 本当は弘原海わだつみ暁良おーろらと言うのだけど、家の者が探している可能性も考えて咄嗟に考えた偽名を口にした。携帯も持ってこなかったから居場所が分かるとは思えないけど、まだ見つかりたくないもの。


「……墨を作って、細々と暮らしております」


 暁徳様は少し困ったように太い眉毛を下げて、静かな声で言った。




 それから私はもう一度頭を下げて「家に戻れない事情があるから少しの間で良いからここに置いてください」と頼み込んだ。

「何でも致します」と言ったら何故か狼狽されてましたけど、最終的に置いていただける事になった。


 山での生活はとても穏やかだった。家を出た時着てきた白いワンピースは汚れてあちこち破れてしまったので、暁徳様の作務衣を手直しして着ている。

 ご恩返しがしたかったけど、私ったら本当に何も出来なくて最初は泣きたくなった。子供の頃から弘海原家の長女として、お稽古事や花嫁修業はたくさんしてきたけれど、便利な家電に囲まれていたから、食洗機を使わない食器の洗い方も分からなくて戸惑ってしまった。

 一度など薪割りのお手伝いをしようとして手斧を持って振りかぶったら、そのまま後ろにひっくり返ってしまって暁徳様を心配させてしまったわ。「無理はしなくていい」と言われたけど、何かお役に立てることはないのかしら。


 離れの作業場で黙々と墨を練る暁徳様の横顔をじっと見つめる。「お昼が出来ました」と言いに来たのだけど、その真剣な表情を見たら声を掛けられなくなってしまった。時折業者の方が家を訪れて喜んで引き取っていかれるから、きっと暁徳様の作品は評判がいいのね。


 僅かな衣擦れと作業の音だけが響く静かな作業場。樹皮、にかわ、木灰、木型などが置かれたその場所は、雑然としていてもどこか趣があり、暁徳様の穏やかなお人柄を表しているよう。

 試し書きの紙や彩墨用の岩絵の具などもご自分で作るらしくて、硯やすり鉢、鹿毛の筆、和紙を漉く道具なども置かれている。私を見つけた時も、和紙用の木の皮を採りに来ていたのだとか。


 額に浮かぶ汗。作務衣の上からでも分かる逞しい上半身が動きに合わせて上下するのを眺めていたら、なんだか胸の奥が騒がしくなった。どうしたのかしら、私。最近こういうことが多い。


「暁良さん?」


 ぼーっとしていたら、作業の手を止めた暁徳様が私を見ていた。額の汗をぐいと拭う仕草にも胸が騒ぐ。手についた墨が額に移り、黒い筋が残る。


「あの……お昼が出来ました」

「いつもありがとう」


 お髭の間から覗く優しい笑顔が眩しい。私は胸元に入れていた手拭いを取り出して、暁徳様に近づいた。


「おでこに墨が…あっ」


 拭って差し上げようと手を伸ばしたら、足元に置かれていた乾燥用の木灰の箱に躓いて、そのまま暁徳様の胸に倒れ込んでしまう。全身を包む竜脳の古めかしい香りに陶然となる。落ち着くのに、落ち着かない。

 うっとりと目を閉じていたら、瞼に吐息が近づいて、ちくちくとしたお髭と、柔らかくて温かい感触。耳に優しい暁徳様の低い声。


「大丈夫ですか?」

「……お慕いしております」


 とくとくと鳴る心臓の音に促されるまま、自分でも驚くくらいにすんなり言葉がこぼれ出た。そう。これは好きという気持ち。

 ただ、言いたかった。素直に思ったままを口にしたら、嬉しくて体が浮き上がる気がした。そして実際背中に回された暁徳様の腕が私を抱き上げていて、吐息が触れる距離にお顔が近づいていたの。

 珍しくどこか急いたような声で、彼が問う。


「いいのですか?」

「何が?」

「私のような者があなたに触れても」

「……暁徳様がいいのです」


 そう言って、再び目を閉じた時だった。

 離れの木戸が大袈裟な音を立てて、誰かが戸口から勢いよく入ってきた。


「探しましたぞ!暁良様!」

「………佐竹。今いいところだったのに……」


 黒服で銀縁眼鏡を掛けた初老の男は我が家の家令、佐竹。木の葉や小枝を髪に引っ掛けて、肩でぜいぜい息をしている。後ろには大勢の黒服SPたち。

 ああ、見つかってしまった。この人どうしてこんなにタイミングが悪いのかしら。



 どうやら暁徳様の所に出入りしていた業者から私の居場所が洩れたらしかった。恐るべしね、弘原海家の情報網。

 あの後大騒ぎの末に泣く泣く家に連れ戻された私は、反省したお父様に「もう二度と無理強いはしない」と平謝りされ、心労で寝込んでいたお母様と妹の有大ありえるには心配したと泣かれた。

 でも冷たいようだけど、なんだか心が動かない。あのお山に置いてきてしまったからかしら。毎日眠いわ。

 窓辺に座ってうとうとしていたら、佐竹が畏まった態度でやってきて、そっと一枚のチケットを差し出した。


「お嬢様。気晴らしにお出かけになっては如何ですか?」

「……気が乗らないわ」

河鍋かわなべ暁斎きょうさいの再来と言われた天才画家・暁楽きょうらくの作品展です。20歳で彗星のように画壇に現れ数年前に突然筆を折って消息不明になっていたそうですが、最近また新作を発表したとかで、水墨画や美人画が大層評判になっております」

「そう……」


 墨、と聞いて少し心が揺れた。もしかしたら、あの方の作った墨が、その画家の絵を彩ったかもしれないと……そんな馬鹿なことを考えた。




 人で賑わう画廊で、一際大きな日本画の前に足を止める。墨の濃淡で描かれた森の風景の中に眠る女性と降り注ぐ白い光の花びら。「天女散花」と名付けられた幻想的なその絵をぼんやり見つめていると、ふと墨の香りが漂った気がした。


 振り向くと、そこには江戸小紋の紺羽織と灰鼠色の着流しを着た背の高い男性が立っていた。きちんと髪を整え、穏やかな笑みを浮かべている。その深く澄んだ瞳の色に、知らず涙が溢れる。

 もじゃもじゃのお髭はないけど、それは確かに私の王子様。ずいぶん若かったのね、とその時初めて知る。


「……王子様」

「いいえ、生憎王子でも魔法使いでもありませんが……」


 あなたをお慕いしております、と。飛び込んだ胸の中で暁徳様が囁いた。



◇◇◇◇◇


【後】

絵師とお嬢様。(眠り姫と熊さん)

ある日森の中熊さんに出会った♪


【カストリウム】ありえるの家出したお姉さま。


実は佐竹がお気に入り。(笑)

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