ロータス

 記憶の中の私は、顔をくしゃくしゃに歪めて泣いていた。短い髪と汚れた手足。


「大丈夫だって、いつまでも泣いてんじゃねえ、子ザル」


 そう言って乱暴に涙を拭ったのは誰だったのか。粗暴な口調、仄かに香る蓮の香。

 遠い記憶はするすると滑り落ち光の中に溶ける。「待って」と声に出した言葉は届くことなく静寂に消えて行った―――。




 大学の映画サークルの部長、金田かねだ翔真しょうま先輩は菩薩のような人。フレームレスの眼鏡が白い卵型の顔に似合っていて、いつもまるで後光が差しているような慈愛の笑みを浮かべ、思わず手を合わせたくなる。


 それがどうして今、先輩が床の上に胡坐をかいて座っているのでしょう。

 きっと夢の続きだね。とうとう解脱して如来さまに?しかも上半身裸。無駄なお肉のないすらっとした体が美しい。眼福眼福。いい夢見た。


「おはよう、萌絵もえちゃん」

「……部長?」


 あれ?現実?頭がガンガンする。床に散らばった衣類やバッグ、ぼんやり見回したやけにお洒落な部屋は見覚えがない。青と白で統一された家具に、大きなベッド。ルームフレグランスか何か分からないが、お香みたいな良い匂いがする。

 目をこすりながら起き上がると、私の体から毛布が滑り落ちた。妙に寒い気がして下に目をやると、やたら肌色の面積が多い。

 そう、肌色。つまり裸。下着姿。


「きゃああああああああああ!!!!!」


 静かな朝の住宅街に、私の悲鳴が響き渡った。




 とまあ、そんなことがありまして。どうやら私は「朝チュン」というものを経験してしまったようで。

 2日間の学祭の企画は大成功、打ち上げで盛り上がったのはいいけど、その後の記憶がない。

 学祭の後、尊敬する副部長の日和ひより先輩が、私と同期の北川君から派手な公開告白を受けてメロメロになっているのを見守って感涙に咽んだのも覚えている。部長と仕組んでじれじれの2人の背中を押した甲斐があった。

 うんうん、めでたいめでたい!……なんて、部長と乾杯を繰り返していたら、飲み過ぎてしまったらしい。


 あの場は大パニックで逃げ出した。あれからずっと部長を避けて逃げ回っている。だってどんな顔していいか分からない。メッセージも全て未読無視、電話も出ない。

 

「も~え~ちゃ~ん。やっと見つけた」

「ぎゃあああああ」


 講義を終えてこっそり教室を出ようとしたところで捕まった。そして空き教室に引きずって行かれて現在部屋の隅で部長に壁ドンされています。現場からは以上です。

 部長は綺麗な一重の目を妖しく瞬かせて、にっこり笑いながら私を見下ろした。いや、以上じゃなかったああ。


「ひどいなあ、あの夜はあんなに盛り上がったのに」

「ひい」

「体は大丈夫?ちょっと無理させちゃったから」

「ふぉっ!?」

「はあ……あの時の萌絵ちゃんすごかった」


 そ、それは一体どういう………?恐る恐る部長を見ると、彼は頬を赤らめて眼鏡越しにとろけるような眼差しを向けてくる。えええ!?いったい私は何をしてしまったのでしょうか!?


 おかしい、おかしいぞ、そんな目で見られるような経験も技術もないはずだ。あの日は裸だったけど、頭が痛む以外、特に体に異常はなかったし!

 外見は可愛いとよく言われるけど、実際はずぼらな枯れ女なんですよ?中高ともに女子校で彼氏なんていたことない。

 趣味はB級ホラーとアクション映画鑑賞、家に居る時はずっと中学のジャージ着てるし、休みの日は化粧もせずに一日引き籠って映画かゲーム。たまにコンビニかレンタルビデオ屋に行くくらい。

 

 そんな!!私が!!何をどうできると言うのか!!ガタガタ震え始めた私に、部長が更なる爆弾発言をかました。


「……僕もうお婿にいけない」

「も、申し訳ございません!!!」


 ガバッと頭を下げてから気が付いた。ん?あれ?ちょっと待って?いくら部長が細身でも、私のようなチビの酔っ払いに押し倒されたところで抵抗出来ない訳ないよね?


「……くっ…」


 ぎゅっと目を閉じたまま首を捻る私の頭上で、部長の押し殺した声が聞こえた。え、泣いていらっしゃる?そっと目を開けて見上げると、横を向いて口を押えていた部長が、ぶるぶる震え出した。その隙間から漏れだしたのは……。


「あはははははははははは!!」

「なになになに、なんなの!?」

「全部嘘だよ、相変わらずアホだな~、萌絵!」


 え、誰、この人。口調が全然違う。部長はこんな大口開けて涙流しながら笑うような人じゃなかった!


「え?は?じゃ、盛り上がったってのは?」

「打ち上げ、盛り上がっただろ?」

「無理させちゃったってのは」

「飲ませすぎたな」

「すごかったって?」

「泣くわ暴れるわ、服脱ぎ出すわ、挙句に俺の服に吐くわ、すごかったなあ、と。家わかんなかったから俺んちに連れてったけど、何もしてないからな」


 オーマイガー。別に神は信じてないけどなんてことをしてしまったんだ、私。

 眼鏡を外して涙を拭った部長?だと思っていた男は、乱暴に前髪を掻き上げて、別人のような表情を浮かべる。


 初めて見た部長の額に真横に走る古い傷跡。まさか。まさか?


「まさか………ショウちゃん!?」

「やぁっと気付いたか、遅えんだよ」


 私の古い古いトラウマ。「ショウちゃん」が、大人になって目の前にいた。



 地元の大きなお寺の次男。所謂悪ガキだったショウちゃんと、当時野生児のようだった私は、やんちゃな遊びをしては大人達を心配させていた。

 ある日度胸試しで橋から川に飛び込んだ私達だが、溺れかけた私を助けようとしたショウちゃんが岩にぶつかって大怪我をした。近くを大人が通らなかったら2人とも死んでいたかもしれない。

 ショウちゃんは遠くの親戚の寺に預けられ、私は中高一貫の女子校に放り込まれた。

 私を「子ザル」と呼んでいた少年とはそれ以来会っていない―――と思っていた。


「いやいやいやいやいやいや変わりすぎでしょなんで2年も言わないの別人でしょ二重人格なの?」

「おお、すげえ、ノンブレス」

「やかましい!どういうこと?」


 噛み付く私にショウちゃんこと金田翔真部長はゲラゲラ笑う。いつもの品のいい笑顔はどうした。ほんと誰だ、君。


「まさかここで会うとはなあ。俺はすぐ気づいたよ?言わなかったのは萌絵の親に会うなって言われてたから。名前変わってないのに気づかないって相変わらずアホだなと思ってた」

「アホアホ言うな。昔は眼鏡かけてなかったでしょ!呼び方もショウちゃんで十分だったし、記憶なんてそんなもんよ」

「やっぱその喋り方のがいいな。いつものあれ、なに。お前こそ変わりすぎじゃね?笑いこらえんの大変だった」

「あれからそりゃもう厳しく監視されたからね!猫かぶりも得意になったわよ」

「俺だって死ぬほど修行させられたわ。これでも反省して心入れ替えたんだよ。そうじゃなきゃお前に会えないと思ってたし」


 部長は謎のマウントを取って、ふん、と鼻を鳴らした。ああ、なんかもう疲れた。なんだこいつ。全然変わってない。どうして今まで気付かなかったんだろう。あの時死ぬほど後悔して泣いて暮らした日々を返して欲しい。


「……ずっと言いたかった。萌絵は?会いたくなかった?」

「……親に心配かけたくないもん」

「確かに何回も追い返されたよ。萌絵は気付いてなかったけど、あいつらくっつける作戦立ててる時、昔に戻ったみたいで楽しかった。2人でよく悪さしたよな」

 

 悪い顔で笑った端麗な男は、その笑みを顔に張り付けたまま私の方へにじり寄った。逃げたいが後ろは壁で、もうこれ以上、下がる場所はない。


「あの……菩薩の金田部長はいずこへ……?」

「菩薩?あれは悟りを求める道半ばの衆生のことなんだよ」

「ムズカシクテヨクワカリマセン」

いまだ煩悩まみれってこと」


 いや、絶対意味違うと思う。お寺生まれじゃないけど確実に違うのは分かる。

 彼の周りの空気が動くとまたお香のような香りが鼻先をくすぐる。遠い記憶を呼び覚ますようなそれは、昔よくショウちゃんとお寺の周りに漂っていた蓮の香の香りだと、気づいた。

 ああ、だからあんな昔の夢を見たのかな。流されて這い上がった岸辺で、泣いて泣いて、目が溶けそうなくらい泣いていた私に、怪我をしたショウちゃんが言ったのだ。大丈夫だ、と。


「なあ、萌絵」

「なんでしょう……」

「俺に会いたかった?」

「…………」

「頑固だな」

「…………」

「もういいよな?お互い大人だし。時効だろ?」

「…………」


 答えようとしたけど、涙がボタボタ落ちてきて声が出ない。あんなに仲良しの相棒だったのに、会いたくなかった訳がない。記憶の底に押し込めて封印した気持ちも蘇る。


「大丈夫だって、いつまでも泣いてんじゃねえ、子ザル」


 粗暴な口調はそのままに。でもその指先は、繊細な優しい仕草でそっと私の頬に触れた。



◇◇◇◇◇



【後】


にわ冬莉さまリクエスト

ジンジャーの続き?


記憶の香りと誤解を招く会話。

再会腹黒眼鏡男子と小動物女子。


あの時他の人物はどう思っていた?と考えるのは楽しい。

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