金木犀(練り香)

「どうせあちきを攫って逃げてはくれねえのでありんしょう」


 黙したままの男に白いうなじが震えるが、一度出た言葉は腹に戻りはしない。女は今日身請けされて遠く上方かみがたへと旅立つ。


 髪結いの男は豊かな黒髪を一房取って黄楊つげの櫛を通す。もつれやすい細い髪に女の好む桂花けいかの練り香を塗り、艶が出るまで丁寧に櫛梳って次の房を手に取る。

 旅立ちの朝に相応しい装いをする為に。ただ黙々と。ただ粛々と。


 しかし女は髪を整えようとする男の手から逃れ、道具箱の剃刀に指を伸ばした。男が止める間もなく櫛梳ったばかりの髪が一房落ちる。


「なにを」

「せめて……せめてあちきの髪を持ってて欲しゅうござりんす」


 静かな狂気と激情をたたえた黒瞳が男を見据える。髪切り指切り入れ黒子。好いた情人おとこに心を捧げるその儀式。他の男のものになる身で指はやれぬ。白磁の肌に名も彫れぬなら、せめてこの黒髪を。

 くるわの作法も知らぬ頃、初めて出会った禿かぶろの時分から少しも変わらぬその妖しい美しさに、男はただただ魅入られる。

 逃げたとて、辿り着く果ては地獄か極楽か。互いにそれが分からぬほど夢見がちな童子では、もうない。廻り髪結いと遊郭の女。はなから叶わぬ恋だった。


 女が去った後、髪結いは一房の黒髪を後生大事に布に包み、仄かに残る桂花の馥郁ふくいくたる香りをいつまでも抱き締めていた―――。




 なーんて、そんな時代もありました。


「前世の記憶がある」なんて言ったら十中八九変人扱いだから、誰にも話したことはない。前世の俺は髪結い、つまり床屋だったらしい。ちなみに今生も美容師だ。

 床屋って言っても店を持ってた訳じゃなくて、遊郭やら商家やらのお得意さんを巡って稼ぐ、いわば出張理容師。うちのお抱えにならないかって引く手あまたの売れっ子だったんだがなあ。惚れた女を身請けできるほどの稼ぎはなかった訳で……。


隆太郎りゅうたろう、聞いてるの?」

「え?ああ、何?」

「私たち、別れましょ」

「へ?俺たち付き合ってたの?」

「はあ!?」


 間の抜けた俺の声に、目の前の女が般若と化した。待ち合わせたカフェのテーブルの向こう側、派手な化粧をした若い女が眉を吊り上げて額に青筋を浮かべている。あ、これヤバい、えーと、どうすっかな。

 と、思う間もなく顔面にコップの水。「最低!!」と金切り声で叫んだ女は足音も荒く店を出て行った。あー、やっちまった。これで何回目だ?

 

 誘われるまま誰でも相手にしてきたが、こっちがあまり興味を持てないのが分かるのか、こうしてしっぺ返しを食う。

 考えの古い母親からは嫁はまだかとせっつかれ、せめて彼女を実家に連れてこいと煩く言われる毎日だ。その暫定彼女?にもたった今振られてしまったようだ。

 

 俺は顔についた水滴を拭う気力もなく、ぼーっと座っていた。もう何もかもめんどくさい。あいつよりいい女なんてこの世にいやしねえ。自分でも馬鹿なこと考えてるのは分かってるけど、どうしても頭から離れない。もう一生独身でいいや。


「おにいさん大丈夫?」


 空気を揺らす金木犀の香り。急に声を掛けられて顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。女性っつーか……なんて言ったらいいの、これ。


 両耳にはルーズリーフみたいにピアスが並んでるし、前下がりのボブはインナーカラーがオレンジ。

 ごつい黒のエンジニアブーツ、金具ゴテゴテのスチームパンクな黒いスカートに透けたタートルネック、中に着てるキャミソールは何の柄だか分からないが多分真っ赤で、顔は可愛いのかもしれないが、過激に目尻を紅く塗った化粧は、まるで花魁みたいだ。今で言うなら地雷系メイク?

 

「ああ、大丈夫」

「拭いたら?風邪ひくよ」


 女性、多分まだ少女の域を出たばかりの彼女は、テーブルの上に置いてあったナプキンをぶっきらぼうに突き出した。そしてなぜかさっきまで他の女が座っていた席に腰を下ろす。


「ありがとう?」

「ね、ちょっとここにいていい?」

「……いいけど。なんかトラブル?」

「見合いから逃げてきた」

「その恰好で見合い?」


 嘘にしても信憑性がなさすぎて笑える。でも彼女は真剣な顔で窓の外から見えないように頭を低くした。確かに彼女の言う通り、外を黒服の男達が何かを探すようにウロウロしているのが見える。


「見合いだからこの恰好なの。今どき親が決めた相手と結婚なんて、時代錯誤でしょ。いくら金持ちでも30歳も離れてんのよ!?」

「どっかのお嬢ですか?」

「まあね」

「でもいいんじゃない?相手が金持ちなら一生食うに困らないだろ」

「アタシは自分が好きになった人と結婚したいの。会社の為に親に売られるなんて冗談じゃない」

「おお、意外とロマンチスト」

「うるさいよ、おっさん」


 おっさんとは失礼な。さっきおにいさんて言ってたのにこの変わりよう。だいたい俺はまだ27だ。

 ふと、身売りされたことに怒り狂ってたあいつを思い出す。あの時のあいつもこんな風に目をギラギラさせて、見習いで師匠についてきた俺に噛み付いたもんだ。その怒りすらも美しくて、俺はずっと見惚れていた。


 静かな狂気と激情をたたえる黒い瞳。もしかしたら、もしかしなくても。何かの予感に導かれる。


「お嬢、名前は?」

「言う必要ないでしょ。すぐ出ていくから」

「ここで会ったのも何かの縁じゃない?」

「きも。ナンパ?」

「そっちから来たんだし。名前教えないと外の奴らに突き出しちゃうぞ☆」


 ただの冗談だったが、彼女は一瞬悔しそうに唇を噛んでから、絞り出すように答えた。

 

「………桂花けいか。木偏に土2つと花って書くの」

「金木犀だ」

「よく知ってるね。名前に合わせてインナーもこの色にしてみたの。香りも好き」


 馴染み深いその言葉は、忘れたことなど一度もない。その一言で雷に打たれたように唐突に理解する。瞳の奥に宿る激情も、名前と同じその香りを好むところも。一目見たら分かると思ってたのに。

 俺は苦い気持ちを抱えて彼女に微笑んでみせた。

 

「桂花ちゃん。攫って逃げてあげようか」

「会ったばかりなのに?」

「俺もさっき振られたばっかだし丁度良くない?」

「あはは。おにいさん軽すぎ。何がちょうどいいの」

「おにいさんじゃなくて、隆太郎」

「え、ちょっと本気!?」


 俺は彼女の手を取って立ち上がった。俺も意外とロマンチストだったみたいだ。

 

 逃げて逃げてその果てが地獄でも極楽でも、今度こそこの手を離さない。



◇◇◇◇◇


【後】

ちょっとファンタジー風味。


スチパン地雷系メイク少女と前世持ちおにいさん。

あれ?電波カップル爆誕?

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