オレンジフラワー(ネロリ)

 嫌い。近くに来るとすぐ分かる。人工的な甘ったるい香り。


 夏が始まったばかりで冷房を入れるほどでもない教室の窓を開けて、私は窓際の席で机の上に学級日誌を広げた。今日の活動を書き込みながら、近づくその存在に気付かないフリをする。


 サッカー部の木下君はいつも外を駆け回っているからなのか、汗と砂埃とバニラみたいな匂いが混じり合って、彼が近づくといつも少し頭が痛くなる。特に匂いに敏感という訳ではないけど、彼のつけている香りはなんとなく好きになれない。

 ちらりと目を上げると、もう練習用のユニフォームに着替えたらしく、綺麗に日焼けした足が見えた。


「ごめん、久藤くどうさん。オレ当番だったの忘れてた。もう日誌書いちゃった?」

「部活あるなら行っていいよ?もう終わるし」


 本人はいい人、だと思う。時々男子だけで盛り上がって煩い時もあるけど、ありがちな他愛ないじゃれ合いみたいなものだ。

 なんというか、無邪気。思ったことがすぐ口に出ちゃうタイプ。あまり女子とは絡まない感じ。もっとも私は黒髪眼鏡の地味な見た目でクラスでも目立たない方だから、出席番号が近い以外あまり接点はない。


「じゃあオレここで待ってる。先生に出してから部活行くよ」

「え、いいよ。私出すし」

「いいからいいから」


 木下君は半ば強引に言って、私の前の席に後ろ向きに座ってしまった。背もたれに腕を乗せて、私の手元を覗き込む。陽に透ける茶色の前髪が揺れて、またあの甘い香りが漂った。童顔の彼に似合っている気もするけど、やっぱり苦手だ。


「字、綺麗だね」

「そう?」

「うん、オレ字汚くてよく怒られる」

「そだね」


 失礼かな、と思ったけど、あまり息をしないようにしてるから返す言葉が素っ気なくなる。無意識に眉をしかめていたらしく、木下君がくりくりした目を更に丸くして不思議そうに私を見た。


「怒ってる?オレ、久藤さんになんかした?」

「………何も」

「さっきから眉間にしわ寄ってる」

「なんでもな……ゲホッゲホッ」


 とうとう堪えきれなくなって口を開いた途端、思い切り香りを吸い込んでしまって噎せた。息が苦しい。新鮮な空気、空気。よろよろしながら窓を全開にして深呼吸する。咳込んだせいで喉は痛いし涙が出てきた。

 木下君はそんな私をオロオロしながら見ていたけど、急に何かに気付いたように顔色を変えた。


「オレもしかして汗臭い?」

「いや、そういう訳じゃ……」


 指摘しづらいことをはっきり聞いてくるなぁ。なんと言ったら彼を傷つけずに済むかグルグル考えたけど、この際はっきり言った方がいいのかもしれないと思い直した。


「あの……気を悪くしたらごめんね。木下君のコロン…?その甘い匂い苦手なの」

「マジか」

「うん。あと少しつけすぎなんじゃないかな」

「だから久藤さんオレが近づくと嫌な顔してたんだ」

「え、ごめん、そんなに顔に出てた?」

「けっこう分かりやすく……嫌われてると思った」

「ごめん」


 私は木下君から少し離れた窓枠に体を預けて、頭を下げた。匂いは嫌いだけど、彼自身を嫌ってはいない。嫌うほど知らない。でも嫌われてると思ってたのに普通に接してくれてた木下君はいい人かもしれない。


「謝んないでよ。部活して帰ると汗臭いってねえちゃんが騒いでさ。匂い消しにってコロン押し付けてきた」

「……まだ汗臭い方がいいけどなあ」

「え、そうなの?」

「いや、汗の匂いが好きって訳じゃないけど、甘いのはちょっと……」

「久藤さんはどんなのがいいと思う?」


 木下君が思いのほか真剣な表情で聞いてくるので、私も真面目に考えた。バニラ以外じゃ大雑把すぎるか。本当はよく洗って何もつけない方がいいと思うけど、本人が汗臭いのを気にするなら仕方ない。


「うーん……石鹸とか柑橘系?ミントも好きかな」

「石鹸、柑橘、ミント」


 木下君は腕を組んで私の言葉を反芻する。考え事をする時の癖なのか、薄い唇が少し尖っているのがちょっと可愛い。可愛い?何考えてんの私。

 なんとなく焦ってしまって、まだ考え込んでいる木下君に声を掛ける。


「あの、木下君?あくまで私の意見だからね?自分で選んでいいからね?」

「うん」

「なんかごめんね?気遣わなくていいよ?」

「でも久藤さんに嫌な顔されんのオレがやだし。だからって汗臭いのも社会的に死ぬし」

「そんな大げさな。私も変な顔しないように気を付けるから」

「そっちこそ気ぃ遣ってんじゃん。……よし、分かった!」

「え?何が?」


 木下君は急にガバっと立ち上がると、とってもいい笑顔を浮かべて私を見た。うう、なんだ急に。日焼けした肌に白い歯が眩しい。


「いい匂い探してくる!」

「は?え?木下君?」


 驚く私を残して木下君は教室を走り出て行った。おーい、日誌忘れてるよ。おーい、おーい……。

 その日は結局私が先生に日誌を出しに行って、一体なんだったんだと首を捻りながら帰った。


 次の日学校に行くと、朝練を終えた木下君が私の席までやって来て、また前の席に後ろ向きに座った。

 いつもはほとんど絡まない木下君が私の前に来たので、彼の友達が遠くの方でざわざわしながら様子を伺っている。私もざわざわする。主に心臓の辺りが。目立つのはイヤ。


「おはよう、久藤さん」

「おはよう」

「なんか気付かない?」


 にこ。


 なんだろう。またいい笑顔。昨日も見た白い歯が朝日に眩しい。いかにも健康優良児な笑みを振りまく木下君の顔をじっと見ていたら、あることに気付いた。


 あの甘ったるい匂いがしない?


 代わりに、ふんわり漂う清潔な石鹸とミント、甘さの中にほろ苦さが混じるシトラス系の爽やかな香り。


「………コロン変えた?」

「正解!どう?これ」

「どうって言われても……いいと思うよ?」

「好き?」

「……うん」

「よし、今日はしわ寄ってない」


 無遠慮に私の眉間をつついた木下君は、嬉しそうにガッツポーズをしながらお仲間の所へ戻って行った。


 なにあれ。なんなのあれ。すごい恥ずかしい。全部私が言った匂い。

 妙に顔が熱くなった気がして思わず机の上に伏せた私の鼻先で、彼のいた場所に残った香りがまたふわりと漂った。



◇◇◇◇◇


【後】

好きな子の好きな香りを身に着けたい男子。

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