第5話【emergency】

 ふたりの涙の日以来、リオの生活は少しずつ変わって行ったように思われた。

 思われた、というのは、プロフェサ、そしてカタギリの間で、何かリオの想像も及ばないことが進められているのが、「なんとなく」感じ取れた、ということだ。リオに見える生活にはなんの変化もないのだけれど、ふたりはあの日以来何かが変わったのだった。


 カタギリはある日、培養室の姉妹の中から1人を取り出して、粘液を丁寧に洗い落とし、かのじょに服を着せて、シュラフのような黒い袋の中におさめた。カタギリは「偉い人の命令なんだ」と言って、指を一本立て、口に当てた。

「プロフェサと、リオと、おれの、3人の秘密だよ」

「どうして?」

「どうしても」

 リオは知っていた。頚椎けいついに繋がっている管を、栄養や酸素が通っているコネクタを、「なんの準備もなしに」とってしまえば、じきに死ぬのだ。血液中を酸素が通らなくなり、ゆるやかに、ゆるやかに窒息して死ぬのだ──リオは自分の首筋に触れて、その痕を確認した。

「このこ、死んじゃったの?」

「うん」

「……私は悲しいI'm SAD

「うん」

 カタギリは何も否定しなかった。リオは無表情のまま、「エモーション」の「哀」のページを開いた。

「SAD」

「うん、そうだね」

 カタギリは自分の両手を見つめた。培養室の少女のコネクタを外した自分の両手を。その遺体に服を着せて袋に入れた自分の両手を──、

「……決めたことなんだ」

「何を決めたの」

リオはすかさず尋ねた。カタギリのことが知りたかった。けれどカタギリは眉を下げて、あの柔和な顔で微笑むだけだった。

「独り言さ」



 プロフェサは、授業が終わったあと、研究室に入れてくれなくなった。彼は常に誰かと言い争いをしていた。「研究の価値」という言葉が何度も飛び交い、「始末」「廃棄」という単語が時折聞こえてきた。リオは、「エモーション」の「怒」のページを開いて、じっと見つめた。

 プロフェサが、怒っているのがわかったからだった。


彼は怒っているHe is ANGRY

リオは呟いた。

「でも私にはやっぱりわからない」



〜〜〜〜〜


 そうして、リオの季節はすぎていった。常に適温が保たれている研究所内にも、ぽかぽかとした陽気が入り込むようになった。外は晴れることが多くなり、窓を開けると風に乗って花の香りが届く。

「春」

「もう春だ」

 カタギリは窓の外を見、それからカーテンの影に隠していたものを取り出した。白や黄色や赤い花を束ねた、花束だった。

「お花?」

「そう。君の誕生日プレゼント。プロフェサと、おれから」

「誕生日。……って、バースデー?」

「そう、君の一才の誕生日──」

 受け取った花束には、小さなカードが挿してあった。


『最愛の娘、リオへ。プロフェサ&カタギリ』


 リオは──

「……ハッピー。ありがとう、カタギリ。うれしい」

 カタギリがあっと声を上げた。それから椅子をひっくり返しながら立ち上がって、手元の端末をパッとリオに向けた。

「リオ!今のもう一回!もう一回!」

「えっ」

「リオ、いま君、笑ったんだよ!」

「笑った?」

 リオは頬に触った。ピロピロと、カタギリが画像を保存する音が部屋に響き渡った。

「やばい、父さんに見せなくちゃ、きっとぶったまげるぞ」

「そんなに?」

「そうだよ!」

カタギリは興奮気味に言った。

「おれたちは、君の笑顔をずっと見たかったんだよ!」

「カタギリ、顔、真っ赤」

「当たり前だろ!」


 リオは鏡を覗き込んだ。そこに映る少女は、確かに笑っていた。

「スマイル……」

「プロフェサのところに行ってくる!」

カタギリは部屋を飛び出していった。バタバタと遠ざかる足音がおかしくて、リオは「エモーション」の「楽」のページを開いた。

「ファニー」




 その時だ。


──ごく近くで、銃声が轟いたのは。




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