第5話【emergency】
ふたりの涙の日以来、リオの生活は少しずつ変わって行ったように思われた。
思われた、というのは、プロフェサ、そしてカタギリの間で、何かリオの想像も及ばないことが進められているのが、「なんとなく」感じ取れた、ということだ。リオに見える生活にはなんの変化もないのだけれど、ふたりはあの日以来何かが変わったのだった。
カタギリはある日、培養室の姉妹の中から1人を取り出して、粘液を丁寧に洗い落とし、かのじょに服を着せて、シュラフのような黒い袋の中におさめた。カタギリは「偉い人の命令なんだ」と言って、指を一本立て、口に当てた。
「プロフェサと、リオと、おれの、3人の秘密だよ」
「どうして?」
「どうしても」
リオは知っていた。
「このこ、死んじゃったの?」
「うん」
「……
「うん」
カタギリは何も否定しなかった。リオは無表情のまま、「エモーション」の「哀」のページを開いた。
「SAD」
「うん、そうだね」
カタギリは自分の両手を見つめた。培養室の少女のコネクタを外した自分の両手を。その遺体に服を着せて袋に入れた自分の両手を──、
「……決めたことなんだ」
「何を決めたの」
リオはすかさず尋ねた。カタギリのことが知りたかった。けれどカタギリは眉を下げて、あの柔和な顔で微笑むだけだった。
「独り言さ」
プロフェサは、授業が終わったあと、研究室に入れてくれなくなった。彼は常に誰かと言い争いをしていた。「研究の価値」という言葉が何度も飛び交い、「始末」「廃棄」という単語が時折聞こえてきた。リオは、「エモーション」の「怒」のページを開いて、じっと見つめた。
プロフェサが、怒っているのがわかったからだった。
「
リオは呟いた。
「でも私にはやっぱりわからない」
〜〜〜〜〜
そうして、リオの季節はすぎていった。常に適温が保たれている研究所内にも、ぽかぽかとした陽気が入り込むようになった。外は晴れることが多くなり、窓を開けると風に乗って花の香りが届く。
「春」
「もう春だ」
カタギリは窓の外を見、それからカーテンの影に隠していたものを取り出した。白や黄色や赤い花を束ねた、花束だった。
「お花?」
「そう。君の誕生日プレゼント。プロフェサと、おれから」
「誕生日。……って、バースデー?」
「そう、君の一才の誕生日──」
受け取った花束には、小さなカードが挿してあった。
『最愛の娘、リオへ。プロフェサ&カタギリ』
リオは──
「……ハッピー。ありがとう、カタギリ。うれしい」
カタギリがあっと声を上げた。それから椅子をひっくり返しながら立ち上がって、手元の端末をパッとリオに向けた。
「リオ!今のもう一回!もう一回!」
「えっ」
「リオ、いま君、笑ったんだよ!」
「笑った?」
リオは頬に触った。ピロピロと、カタギリが画像を保存する音が部屋に響き渡った。
「やばい、父さんに見せなくちゃ、きっとぶったまげるぞ」
「そんなに?」
「そうだよ!」
カタギリは興奮気味に言った。
「おれたちは、君の笑顔をずっと見たかったんだよ!」
「カタギリ、顔、真っ赤」
「当たり前だろ!」
リオは鏡を覗き込んだ。そこに映る少女は、確かに笑っていた。
「スマイル……」
「プロフェサのところに行ってくる!」
カタギリは部屋を飛び出していった。バタバタと遠ざかる足音がおかしくて、リオは「エモーション」の「楽」のページを開いた。
「ファニー」
その時だ。
──ごく近くで、銃声が轟いたのは。
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