第2話 ANGRY?

 はるか昔の、著名な学者の言うことには──生まれたばかりの赤ん坊でも、三つの感情を持ち合わせている。「快」と「不快」、そして「興味」。

 身体と脳の成長発達と共に、「快」は喜悦に。「興味」は驚きの感情を形成していく。一方「不快」は悲しみ、嫌悪、恐れ……そして怒りと、多岐に分かれていくとされる。

 しかし、リオはどうだ。


 リオがプロフェサの元に到着すると、プロフェサは穏やかな目でリオとカタギリを見比べた。感情が表に出ない我が子と、養子縁組をした我が子とを交互に。

「プロフェサ、手指の動きに問題はありません」

「そうか」

「プロフェサ」

 リオは無表情のままくるりと後ろを向いた。髪型を見て欲しかったらしい。丁寧に編み込まれた黒っぽい髪と、艶々のツインテールを揺らす。

「わたしは今日も、ハッピーです」

「すてきな髪型だ。カタギリは器用だねえ。……これで料理もできたらいいのに」

「料理だけは勘弁してください、父さん」

 プロフェサはほっほっほと笑った。カタギリも笑った。リオは2人を見比べて、自分の顔をペタペタ触った。リオに表情筋がないわけではないのだが、一向に機能した試しがない。

 仕方なくリオは「エモーション」の「楽」のページを開いて、腹を抱えて笑う男を指差した。

「ファニー。カタギリの料理はいつも……焦げていて、にがい」

「リオまで」

 カタギリはリオの肩を叩いた。

「手厳しいな……リオが料理を覚えたら、一番の料理人になったりして」

「そりゃあそうだろう。リオはお前と違って器用になんでも覚えるぞ……リオ、そこの椅子に座って。今日の授業を始めよう。──カタギリはどうする」

「おれも同席しようかな」

「わかった」


 父子は目を合わせて、全てを諒解りょうかいしたかのように動き出した。カタギリは開け放たれていたカーテンを閉め、プロフェサは大きなモニタに映像を映した。

「例えばの話だ。わかるね」

 リオは頷いた。イフ。仮定する。

「例えば、キッチンの冷凍庫にリオの好きなチョコレートアイスがあったとするだろう。リオのために、カタギリが買ってきたものだ。どう思う?」

 チョコレートアイスの画像がモニタに映し出された。

「嬉しい。ハッピー」

「そうか」

 プロフェサは画像を切り替えた。見知ったキッチンの冷蔵庫の前に、見知らぬ男が立っている。

「しかしだ。どこからかやってきた不届き者が、きみのためのチョコレートアイスを食べてしまった」

「えっ」

 リオは瞬時に「なにか」を感じた。そんなことがあったら。そんなことが……。

「どう感じる?『エモーション』でもいい。表現してみてくれないか」


 リオは言葉を探せずに考え込んだ。「エモーション」の表紙を撫でて、まだおぼつかない指でページを何度も何度もめくった。

 何分かかけて、リオは、驚いている女の絵を指し示した。

「驚く……」

「ほかには?」

 カタギリが声をかける。「驚くだけかい?」

 リオはまた考え込んだ。驚く、そのほかに何か感じることがあったか。……確かにあった。

 かじりつくように「エモーション」を見つめるリオを前にして、プロフェサとカタギリは静かに目配せした。


 2人がリオに課した問題の正解は「不快」あるいは「怒り」「悲しみ」であった。


 リオには「不快」の感情のバリエーションが少ないらしい。それが2人の見解であり、当面の課題であった。嫌なことを嫌と言えず、怒れず、悲しめない。まだ彼女の情緒は、生後1年の赤子にも及ばないのだ。


 リオはしばらくして、一筋涙を流す女の絵を指差した。

「悲しい……かも。サッド。楽しみにしてたアイスが、無くなってしまったから……」

「……うん、今日はそれでいい」

プロフェサが頷いた。カタギリが、「おれだったら怒るなぁ」と呟いた。

「楽しみにしてたチョコレートアイスだぜ。食べたのがプロフェサでも、コソ泥でも……おれは怒るね。なんでだよ!って」

 リオは繰り返した。

「怒る?」

「そう、アングリー」


 カタギリは「怒」のページを探し当てて、地団駄を踏む男の絵を指差した。

 リオは瞬きをして、イラストと、柔和な顔をしたカタギリを見比べて、絵本をめくった。「エモーション」の最後のページには、大きなクエスチョンマークがある。リオは、それを指差した。


「アングリー。わからない」

「怒りはまだ難しいか」とカタギリが言った。プロフェサは2人の会話を聞きながら、何事か考え込んでいるようだった。










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