哀の左

紫陽_凛

第1話 RIO

 リオはゆっくりと絵本のページをめくった。ゆっくりと。ゆっくりと。指先にくまなく通う神経を駆使して、固い厚紙のページをめくる。おぼつかない手指の動きを、隣の椅子に座った若い男がじっと観察している。

 リオの頭には脳波を測定するための機器がついている。腕や指には、筋肉の動きを観測するための感知器が。そして、リオの視界や視点は全て、別室の教授プロフェサが把握できるようになっている。

 ページをめくり終えたリオは本を閉じ、隣の男を見上げた。男は頷いて、何事かメモを取ると、くるりとリオに向き直った。

「いいぞ、リオRIO。今の気持ちを教えてくれ」

「極めて良好、です」

「それはいい兆候だ。……ちなみに、happyか?funか」

 リオはしばし、絵本の表紙に視線を向けた。

「エモーション」というタイトルの絵本には、女性や男性がさまざまな感情の表現をするイラストがびっしりと書かれていた。リオは、喜のページをゆっくりと開くと、穏やかな顔をした女性を指差した。

「ハッピー」

「いいじゃないか。おれもハッピーだよ」


 リオは人造人間だ。ヒトの細胞から生まれ、受精卵でなく、最初から全ての臓器を備えた「13歳の少女」としてデザインされた、とは出自を異にする少女である。思考のベースは人間の脳のそれであるが、歩き方から生活習慣から、本来なら発達する途上で習得すべきこと全てを、順番に習得させたためか、それとも“人造人間”だからか──リオの情緒の発達は頭脳の発達に遅れをとっている。


「カタギリ。髪を結んでほしい」

リオは肩まで伸びた髪を指差した。指を一本だけ立てられるようになったのも最近のことだ。リオの手指は鈍い。赤ん坊として生まれた時から手を使っている同年代と比べると、感覚も鈍ければ動きも遅い。

「いつもの通りでいいかな」

「お願いシマス」

 ぺこり、と頭を下げたリオの頭から、機器を外した男、カタギリは、モニタ越しにこちらを見ているであろう教授に合図を送った。



 教授はデータを取るのをやめ、別室でコミュニケーションを取り始めた2人を見守ることに徹した。

 禁じられた技術、自然や神に背く行為、悪魔の所業などと後ろ指をさされ続けた研究だったが、50年の歳月をかけてやっと、やっと実現した。

 RIO。リオ。──教授が若い頃に亡くした娘の名だ。


〜〜〜〜〜


 暗い色の髪を編み込み、余りをツインテールのように垂らして結んだリオは、鏡の中でくるくると向きを変えてから、無表情のまま、「エモーション」の中の女性の笑顔を指差した。

「ハッピー」

「喜んでもらえてよかった」

カタギリはリオのぶんまで破顔した。

「プロフェサのところに行こうか。絵本、忘れるなよ」

「うん」

リオは両腕で本を抱えた。そしてよたよたとスリッパを履き、ゆっくり床を確かめるように歩いていく。カタギリはそんな少女が転ばないように目を配りながら、測定室の扉を閉めた。



「ハッピー、ハッピー……」

 ツインテールを揺らしながら培養室を横切ろうとして、リオは足を止めた。培養室の中にあるものを、知っているからだった。それは青白い光の中に浮かび上がる少女たちの裸体だ。一人一人大きな試験官のなかで、胎児のように丸くなっている。

 リオはプロフェサに聞いたことがある。「あれはなに」と。プロフェサはそっと教えてくれた。

『いつか生まれてくるリオの姉妹だよ』と。


 リオは立ち止まり、重たい扉の向こうにいる姉妹たちに呼びかけた。きっと今日も、なにか夢を見ているに違いないのだ。

「わたしは、ハッピー」

 カタギリはそれを黙って見守っていた。

「みんなは、ハッピー?」






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