第二章:卵生人間

第2話

 荷役の仕事は事故の影響や人員不足で予定よりも遅く終わり、茜色の太陽が荷役労働者たちの汗を優しく蒸発させた。揮発性の労働者たちの汗は作業着にしみこみ潮風に吹かれ、磯の香りに混じって生物の潮の匂いが大谷の鼻をかすめた。飯野は荷役労働者を倉庫の外に整列させて、人数の確認と点呼を行い一日の作業の振り返りを行っていた。

 「みなさん本日はありがとうございました、足を怪我した人が一名おり作業に遅れが生じましたが作業はこれで終了です、作業が長くなったので今日は若干多めにいれておきました」飯野は形式ばった口調で淡々と話し、一人一人に手渡しで茶色の封筒を配った。荷役労働者達は両手で封筒を受け取るのが習わしのようで、中には両手で封筒をつかみ頭を垂れる労働者もいた。

 「はい、これ大谷さんの分、2週間ほどの期間でしたけどありがとうございました、実は大谷さんには特によく働いてもらったので他の人よりはちょっと気持ち多めに入れてあるんですよ、それと早速ですが、次回もまた来ていただきたいと思ってましてね、封筒の中に電話番号が書いてある紙と次の仕事についての案内がありますので、もし仕事が欲しかったらいつでもご連絡ください」

 飯野は他の労働者のものよりも若干膨れた封筒が見られないように手で隠しながら大谷に差し出した。大谷は膨らみを確かめるように表面を親指で撫でまわし、作業着のポケットの中に無造作に詰め込んだ。

 「ありがとうございます、時間拘束については不規則ですけど、倉庫裏の海の見える場所は気に入りましたよ」

 「嬉しいねぇ、ところで大谷さん短大出てるんだってね? こういった力仕事の労働者にしておくのは少々もったいないなって思いまして、次回来てもらえるなら事務仕事も一部お願いしたいと思ってますよ」

 飯野は大谷の肩を2度軽く小突いて笑顔を向けた。大谷は飯野の屈託のない笑顔に対して青春時代の部活動で苦楽を共にした時の友情に似た心の躍動を感じた。倉庫から外に出て早速封筒の口を親指の爪で破り開けると、日当の8,000円に2,000円が割り増しされ、飯野の携帯番号と次回の仕事の内容が記載されたA4紙が一枚入っていた。業務内容を確認してみると募集時に見た案内と同一の荷役作業に加えて、集計データ入力作業という事務方の仕事が書き足されており日当が9,000円となっていた。大谷は頭の中で10,000円のうち3,000円を家賃、1,000円を光熱費、1,000円を交通費の積み立てに充てて、3,000円を今日の飲食代、残りの2,000円は貯金するという勘定をした。3,000円もあれば十分な酒と飯にありつけると大谷は軽快な足取りで、埠頭で働く人専用の川崎駅行きのマイクロバスに乗り込んだ。マイクロバスは乗り合いバスで他の現場の労働者や事務方のアルバイト従業員も乗っていた。今日の作業の遅れにも関わらずマイクロバスの席はほぼ埋まっていたので、隣の席の人に軽く会釈して二人席の廊下側に座った。窓側に座る男は労働者の風貌ではなく事務作業をしていそうな色白の卵生世代らんせいせだい位の年齢の青年であった。青年は街頭と車のライトのみで輝く日の暮れた埠頭を窓から物憂げな表情で眺めていた。切れ長の一重瞼から除く黒々とした目には大谷のような荷役労働者など映らないだろうと感じられた。大谷は腕を組みながら正面を向いて目を閉じ、3,000円のうち酒代と飯代の内訳をいくらにするのかを考え始めたかと思うと、青年の存在を途中から完全に忘れて深い眠りに落ちた。

 外から演説する女性の声が聞こえてきて目を覚ました大谷はマイクロバスが川崎駅東口に近づいていることに気付いた。隣にいた卵生世代の青年は大谷が寝ている間に降りたようだった。大谷は窓から外を見ると『卵への公金支出を!』と書かれたプラカードや大弾幕を持った人々と、その中央に台座が見えた。台座の上ではあどけなさの残る若い女性が肩にかかるくらいの長さの黒髪をなびかせマイクを握り雄弁に主張を述べていた。

「道中の皆様、庄司かなででございます、卵を持つ女性として主張します! 受精、未授精に関わらず卵には公的扶助が必要です! 私は卵生世代第一世です。母は私を産卵した際に産卵後貧血を起こし日常生活に支障をきたしました。その間、卵は何の保護もうけなかったんです! 今も全く制度は変わっていません。卵から赤ちゃんが生まれるようになった今、胎児と同等かそれ以上の設備で卵や産婦さんぷさんを保護すべきなんです! 昔から何も変わらない世の中ではダメなんです!」

 かなでのピンと張った糸のように繊細でハリのある声は道行く人々の耳には届いていないようで各々家路に急いでいた。立ち止まって演説聞いている人も数名いたものの、かなでの美しい容姿と対照的な力強い声にほれ込んでいるような変態的な男達のみであった。大谷は不思議なことにその演説に聞き入ってしまい数分間だけその場で立ち止まっていたが、しばらくして川崎駅東口近辺の夜の明かりの方へ歩き姿を消した。

 川崎駅から徒歩で10分程度移動した場所にあるキリスト教会の角を曲がった先に『田宮壮』という築40年以上の木造アパートの2階の6畳一間の一室が大谷の部屋だった。『田宮壮』には6部屋あり共同トイレ、シャワー、キッチンがあるが住人と遭遇しても挨拶をせずに足早に用を足しその場から可能な限り早く移動していた。帰宅後、幸運なことにシャワー室が空いていたため着替えと生乾きのタオルを持って汗を流すことにした。頭から錆の匂いが混じった水で汗を洗い流し、誰かが忘れて行ったであろう石鹸で泡を立て、爪を立てて髪の毛根から足の指の隙間まで徹底的に洗った。一緒に作業をした荷役の男が飛ばしたつばや口や鼻から垂れ流していた液体を思い出し、体に付着しているのではないかという不安感から体が赤くなるまでこすり続けた。

 シャワーを浴びた後、皮膚をこすった後の赤みが空気に触れヒリヒリと脈打つ痛みを孕んでいた。大谷は黒いシャツとはき古したジーパンを着用し、帰り道に目星をつけておいた『ビール中ジョッキ1杯500円』という謳い文句の居酒屋の暖簾をくぐった。夏の時期は扉を開けっぱなしのようで、カウンター席が7席、奥に座敷がある典型的な焼き鳥屋であった。大谷は早速中ジョッキ500円とお通し代を300円と見積もり、つまみの唐揚げ600円を注文した。お酒に強いわけではない大谷は一杯目で心地よい酔いが体全体に回っていくのが分かった。ほろ酔い状態でお通しの芋の煮っころがしを割りばしでつついていると、ふとブラウン管のテレビで流れているニュース番組に目が行った。

 「ここで専門家をお招きしております、卵生世代のマーケティングに詳しい星浩ほしひろしさんです!」

 「こんばんわ、星浩です、さて卵生世代のマーケティングについてですが、A世代と呼ばれる人たちが時間効率を重要視しドラマや映画を3倍速視聴などしていましたが、卵生世代はマルチタスク世代と呼ばれており、2倍速の映画を視聴しながら別の作業をします。それも従来人間はマルチタスクができないと言われていましたが、卵生世代はマルチタスクができるようなのです。これは最新の研究結果で明らかになっています。卵生世代は物事に興味関心を示していないように見えて実は誰よりも興味をもっているような世代なのです。」

 大谷はマイクロバスに乗った時に隣にいた卵生世代の青年と、川崎駅東口近辺で見かけた庄司かなでを思い出した。彼らはもしかすると大谷がそこにいたことを覚えているのではないかと考えたが青年は全くこちらを見ていなかったし、庄司かなでは演説に夢中だったので恐らく彼らの記憶に一切大谷の存在などないだろうと結論づけた。

 大谷は中ジョッキ2杯と唐揚げと芋の煮っころがしを堪能し千鳥足で家路についた。明るいネオンの光が蛍のように無数に飛び交い、人々の笑い声と肉や魚の焼ける炭の匂いが大谷の五感を混乱させ、目の前に幻想とリアルをない交ぜにした世界を創造させていた。半開きの扉からはカラオケを熱唱する声や煌びやかに着飾ったキャバ嬢がスーツ姿の中年の男達を見送っている風景は、卵から人間が生まれてくるという人類という生命にとって急激な進化を遂げたにも人間社会の歯車はほとんど昔と変わらない弧を描いていることを表していた。大谷の頭の中に庄司かなでの演説がよぎった。真面目に生きてきたという事だけが自慢の大谷の頭の中に『何も変わらない世の中』という言葉が反芻していた。大谷の酔いはさらに深く回り千鳥足で意識が朦朧としはじめ、周りの声は雑音となり、光はぼやけ目で形をとらえることができなくなっていた。その瞬間、大谷は強い衝撃で吹き飛ばされ雑音と光は一瞬にして消え去った。消えゆく意識の中最後に聞こえてきたのは女性の金切り声と救急車のサイレンの音だった。

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一億総卵生社会 美原仁義 @Hitoyoshi_Mihara

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