一億総卵生社会
美原仁義
第一章:卵生社会
第1話
人類が卵から生まれるようになって数年が経過した。カモノハシやハリモグラといった哺乳類で卵生の動物は既に存在しており研究が進められていたが、進化の過程で急激に胎生から卵生へ変化した哺乳類は生物学の歴史上前例がなかった。卵生になってからの人間の生殖や発生については研究段階ではあるが、健康的な若い男女の本能的な行動からわかることとして、
「くだらねぇな、こんな適当な議論で飯が食えるんだからテレビにでるって楽でいいな」大谷はそう毒づくと青と黄色の配色の作業着に着替え、六畳一間で畳の湿った不快な匂いが充満する部屋を出た。大谷は7月中旬の梅雨が明ける夏の期間、コンテナーから何語かわからない記号のついたペールや木箱を冷蔵倉庫へ搬入するという肉体労働に約2週間ほど従事していた。現場を監督する倉庫の職員の手元には30人ほどの名前が記載されたリストがあったが、実際に集まっているのはそのうち10名程度で、2週間連続で出勤しているのは大谷ただ一人であった。大谷は福岡の短期大学を卒業後、就職しようと上京したが米国の金融引き締めに起因する第二次世界恐慌による就職難のため、正規職員への就職はできず派遣や日雇いの仕事を転々としていた。根がまじめな性分であるためどの職場でも依頼された業務内容と出勤時間はしっかりと守っていたが、不安定な身分であるが故に用事がなくなれば便利な労働力として使い捨てられるのが常であった。倉庫での午前中の搬入作業が終わると大谷はすぐに非常口から倉庫の裏側へ出ていき、海を見ながら菓子パンをかじり煙草を吸うのが日課だった。そこには毎回、大谷だけではなく、他現場の荷役労働者や倉庫業者の社員が集まり社交場と化していた。大谷が従事する業務を担当する倉庫業者の社員の
「いやぁ、午前中は悪いね予定よりも多く荷物を運ばせちゃって、実はいつも大谷さんと一緒出勤していた
飯野は20代後半くらいの年齢で青年と壮年の狭間での葛藤が目元のしわや肌質、表情に岩肌の苔のように繁茂していた。大谷よりも背が頭一つ高く、倉庫業務で鍛えられ体格がよく眼鏡をかけており、常に安全第一と書かれた黄色のヘルメットをかぶっていた。
「そうですか、瀬野さんとはお別れですか、卵を割ったくらいで裁判だなんてなんだかおかしな世の中になりましたね」
「駅だけでなく、どこにいっても誰かの卵を割ってしまわないか戦々恐々としてますよ、卵から人間が生まれるっていうのに大きさが鶏の卵くらいしかないうえに赤ちゃんも胎生の時と比べて何十倍も小さくなったっていうじゃないですか。でも健康状態に問題はないようですし、1歳になるころには体重も身長も従来通りだそうですよ、卵から生まれはじめた新生児は今はもう20歳前後くらい、僕よりも一回り若いくらいの人たちですが、何ら僕らと変わらないような気がしますけどね」
「用心しないといけないですね、社会全体がこの人間卵についてまだどの分野も未成熟ですからね、とんでもない事件にでも巻き込まれでもしたらたまったもんじゃないですよ、ただえさえ生活が厳しいってのにこれ以上...」
大谷はそういうと缶コーヒーを飲み干し、煙草の灰を空になった缶に入れた。飲み口の茶色のコーヒーに纏わりついた灰は潮風に吹かれ、付着し続けられなかった灰は吹き飛んでいた。大谷は呆然として「俺も社会の荒波に消し飛ばされてしまうのだろうか」と自分の将来を憂いた。
午後の作業はフォークリフトでの運搬がメインだったため、コンテナーの中に積載された40キロ程の重さの木箱をパレットに移動させることになった。40キロの重さの木箱ともなると力自慢の男であっても一人で持ち上げて運ぶのは難しく、2人一組で一箱ずつ運んでいくことになった。大谷はヒビの割れた眼鏡をかけた白髪交じりの50代の荷役の男とペアになった。荷役の男は風呂に入っていないようで肌は粉吹き、わずかな尿の刺激臭が鼻腔に染み付いた。
「こんな重い貨物、現地では人力で一人で運んでるらしいぞ、やっぱりアジア人と外人じゃあ体格が違げぇや」荷役の男は大谷と一緒に木箱を運びながら話しかけてきた。こういうやつに気に入られでもしてまとわりつかれたら大谷の仕事がより不快なものになってしまうと思い「そうですねぇ」と不愛想に答えていた。男は今まで返答をする人がいなかったようで、大谷の虫けらを見るような侮蔑を含んだ眼ですら自分に興味をもっている好意的な目と勘違いしてか、仙台から東京へ出てきて有名企業に勤めていただの、ホストをやっていただの嘘か誠かわからない話を延々と語り始めた。
「俺はそのあとホームレスになっちまって、上野駅の不忍池の近くで何年も寝泊まりしてたんだよ、毎日腹が減ってしょうがねぇからとにかく飯を探すんだ、あの辺で座っていればホームレスを助けてくれる人が結構いるからそういうやつから恵んでもらったり、あとは日雇いの仕事だな、それで飯代を稼いでたりしてたんだ」
荷役の男は唾をまき散らしながら饒舌に語っており、大谷はその姿に虚言症の人の持つ独特な誠実さのようなものを覚えた。
「そんでよぉ......」
しばらくの沈黙の後、荷役の男は木箱を運ぶ手が少々ゆるみその場に立ち止まった。大谷は荷役の男の人生語りと匂いと疲労が重なり、男の行動に怒りの感情が沸々と湧いてきた。
「何やってんですか!? 早く運びましょうよ?」
大谷が倉庫全体に響くような怒号を出したが荷役の男は狼狽するどころか深く物思いにふけっているような落ち着いた様相であった。その次の瞬間、荷役の男の表情は何か強い、この世のありとあらゆる快楽を一度に経験したかのような恍惚な表情を浮かべ、鼻水とよだれを垂れ流した。
「あれがよぉ、あれがよぉ、うまかったんだよ、あれがよぉ」
荷役の男は木箱を支えることができずにつま先に40キロ近い木箱の角が突き刺さった。木箱の角は男の骨を砕いたのがわかった。血が男の黒いスニーカーから染み出てきて、それを見た他の荷役が顔をゆがめた。しかし荷役の男は痛みをも凌駕するほどの快楽に陥っているようで、止まらない唾液を垂れ流し上を向きながら大声で叫んだ。
「卵がよぉ、たまごがうまかったんだよなぁ! こどもがそだてられないって女が産卵しては俺にくれたんだよ、それがさぁ、はははっはは! あぁ、たまぁご、どこにあるんだよぉ!!」
「ったく、あいつ薬中だったか、面接のときもうちょっと気を付けておけばよかった」
飯野は激しい剣幕を浮かべ荷役の男の所へ走っていき、他の荷役労働者と共に彼を押さえつけそのまま奥の部屋へ連れて行った。大谷はその場で男の背中を見ながら、「俺はこんな社会の底辺の奴らとは違うんだ」と何度も自分に言い聞かせ自我を保っていた。
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