87 再会

「お……お母様…………」


「侯爵夫人……?」


 クロエは目を見開いて、身体を強張らせる。

 信じられなかった。

 彼女の目の前には、死んでしまった母がいたのだ。


「ほぎゃぁぁ……」


 そのとき、母の腕に抱かれていた赤ん坊が泣き声を上げる。


「おー、よちよち……きっとお姉さんとお兄さんが遊びに来たから嬉しいのね」と、母は愛おしそうに腕の中の子をあやした。


「え、っと……」


「これは……」


 クロエもユリウスも戸惑いが隠せない。

 自分たちが向かった先は、クロエが生まれる前でもなく、ユリウスが逆行を阻止したわけでもなく……。



 母はにこりと微笑んで、


「まだ生まれて一ヶ月なの。普段は乳母に任せてあるのだけど、今日はあなたたちが来ると思って。――触ってみる?」


 クロエは少しだけ躊躇する素振りを見せたが、意を決して母のもとへと向かった。

 ぷっくらと膨れた頬をそっと撫でると、赤ん坊はきゃっきゃと嬉しそうに笑った。


「殿下も、どうぞ」


 今度はユリウスがおっかなびっくり手を伸ばす。すると、赤ん坊は彼の指先をぎゅっと握って楽しそうに拳を振った。

 クロエもユリウスも自然と口元が綻んで、顔を合わせて微笑み合う。とても温かい気持ちになった。


「可愛い……」


「あぁ……」


 母はくすりと笑って、


「この子はね、ちょっとだけ小さく生まれちゃって、お産のときも少し大変だったの。でも、生きよう生きようって頑張ってくれて、そして――こんなに立派に育ったのね、クロエ」


「お母様……」


 クロエの瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。隣に立つユリウスは、そっと彼女の背中を撫でた。


「では……話をしましょうか」


 母は、赤ん坊をゆりかごに寝かせて、改めて二人と向き合った。




「クロエ、これまでずっと黙っていてごめんなさい。私の能力は、未来が『見える』の」


「未来が……?」


「見える、ですか?」


「そう。だから、今日、二人がここに来ることも、ずっと前から見えていたわ」


「で、では、侯爵夫人は……その、パリステラ家で起こった悲劇も……?」と、ユリウスが恐る恐る訊く。


「えぇ……」母は矢庭に顔を曇らせた。「全て……見えていたわ」


 二人は目を剥いた。まさか時の魔法にそのような能力もあったのかと、ユリウスは驚きを隠せなかった。何度も読んだ文献には、そのような記述は全くなかったのだ。


 しばしの沈黙のあと、母は軽くため息をついた。


「……でもね、私の能力はただ『見える』だけなの」


「どういうことです?」


 にわかに侯爵夫人の声が鋭くなって、


「私の力では決して未来は変えられない、ということよ…………」


 またもや気まずい沈黙。穏やかだった寝室は、瞬く間に重い空気に入れ替わった。

 すやすやと赤ん坊の寝息が遠くから微かに聞こえる。


「クロエ、私の生家は断絶したって知っているでしょう?」


「はい。お祖父様もお祖母様も、叔父様も亡くなったのですよね?」


「えぇ。……それも、全部見えていたの。だから、凄惨な未来を変えようと努力したわ」


 母の顔が苦痛に歪んだ。二人は、この先の話が酷く辛いものだと理解する。


「でも、駄目だった。両親も、弟も、見えた通りに死んでしまったわ。だから、私は過去へ戻ったの」


 クロエははっと我に返って、母の瞳を見た。すると、それは自分が覚えていた位置とは逆――左目が光彩を帯びていたのだ。


 娘の視線に気付いた母は苦笑いをして、


「もう、何度巻き戻ったことでしょうね。私はなんとしても家族を救いたいって、可能な限り何度も挑戦をしたわ。……でも、全てが叶わなかった」


「……」


「……」


 二人とも押し黙る。胸が苦しくて、いたたまれない気持ちになった。


「それで、やっと気付いたの。あぁ、自分の能力は本当に『見える』だけで、未来は既に決まっていて、絶対に変えられないんだな、って。だから私は、受け入れることにしたの。己の運命を」


「そんな……」


「だから、家族の行く末も受け入れた。その後は一人で静かに暮らそうと思った。……でも、そんなとき、見えてしまったの。未来の自分の娘の運命が……」


「うそ……」


 クロエの顔が青ざめる。さっきからずっと心臓がばくばく鳴って、指先の震えが止まらない。


「っ……」


 ユリウスは思わず顔を背けた。

 未来が分かっているのに何もできない状況は、きっと想像を絶するほどの深い絶望だっただろう。果たして、自分なら耐えられるだろうか。


「おっ……お母様は……」にわかにクロエが掠れた声を上げた。「だ、だから……いつも言っていたのね。私が心から愛する人と必ず幸せになれから絶対に諦めないでね、って…………」


「えぇ。言ったでしょう? クロエは愛する人と絶対に幸せになれるって」


 母は、娘と隣にいる皇子をゆっくりと交互に見た。

 二人は目を見開き、思わず顔を見合わせる。途端に恥ずかしくなって、揃って頬を染めながら視線を逸らした。

 そんな微笑ましい様子を、母は嬉しそうに眺める。


「クロエ」出し抜けに母は娘の手を取った。「知っているのに、なにもできなくて本当にごめんなさい……。でも、私はあなた――いえ、あなたたちが二人で必ず乗り越えられると、信じていたわ」


 クロエの瞳から、ぼとぼとと再び大粒の涙がこぼれ落ちた。


「なんで……なんで、私を生んだの!? お母様は全てを知っていた――なら、私を生んだらお母様自身も不幸になるって分かっているのに! ……死んじゃうって、分かっているのに…………」


 父からの、母と自分への仕打ちが頭を過ぎる。それは、とても悲惨なものだった。

 それが分かっていたのに、なぜ母は自分を生んだのだろうか。いくら「見えるだけ」と言っても、自らの行動の結果である「子を生まない」という選択肢も選べたはずなのに。


 母はクロエの涙を拭って、


「それはね、自分自身があなたを生みたいと思ったからよ。私は、あなたに生きて、ローレンス殿下と幸せになって欲しいと願ったの。――生まれて来てくれてありがとう、クロエ」


「お母様!」


 クロエは勢いよく母に抱きついた。滂沱の涙は止まらなかった。


 自分自身の胸の中に、ずっと忍ばせていた想い。本当の彼女の想い。

 溢れる内なる想いは、自然と口から溢れ出た。



「私……お母様の子供として生まれて来て、本当に良かった…………っ!!」



「クロエ……苦労をかけてごめんなさい……私の子でいてくれて、本当にありがとう…………!」


 母娘は強く抱擁する。

 苦しかった。辛かった。何度、この世界から消えたいと思っただろう。


 でも、クロエの胸の奥には、母を愛し、母の子として生まれて誇りに思う気持ちは、ずっと残っていたのだ。


 ――私は、お母様が好き。


 その想いは、彼女にとって目には見えない大切な宝物だった。









 そして時間は規則的に進む。

 過去の世界に延々と留まっているわけにはいかない。


 クロエは、未来に向けて歩き出さなければならない。

 お別れの時が来たのだ。



「ローレンス殿下、娘をよろしくお願い致します」


「勿論です、侯爵夫人……っ!!」


 ユリウスは固く拳を握りしめる。彼の頬も涙で濡れていた。


「クロエ、この後は殿下にお任せしていれば問題ないわ。帝国でも頑張ってね! あなたたちなら大丈夫だから。二人の子供は――ふふっ、これは内緒にしておいたほうがいいかしら?」


「待って、私たちは過去へ――」


「それも心配しないで。……最後に、私からのプレゼントよ」


 母は懐からおもむろにペンダントを取り出した。

 それは、クロエと同じ、ペンデュラムの魔石。


「お母様……!」


 クロエは目を見張る。次の声を出す前に母の巨大なる魔力に圧倒されて、全身が痺れて動かなかった。


 ペンデュラムが輝き出す。

 ゆらゆらと揺れ始める様子は、とても幻想的で美しかった。


 七色の輝きは、未来へと伸びていく。


 クロエは帰る時間が来たのだと、ようやく気付いた。

 前へ進もう、と覚悟を決める。


「次は、あなたが母親になる番よ。しっかりね、クロエ…………」


「お母様、大す――――…………」





 世界が、真っ白になった。



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