86 未来へ
クロエは、湖の底のような静寂の中を進む。
人形みたいに静止した王都の人々を尻目に、ゆっくりと歩いた。最後に目に焼き付けるように、見慣れた景色を楽しむ。
幼い頃に、たまたま体調が良かった母と一緒に行った歌劇場。ユリウスと二人で食べ歩きをした屋台。それらは今でも煌めいて。
(私の中には、お母様とユリウスしか、残っていないのね……)
どれも、これも、愛おしい思い出で、胸がいっぱいになる。
この世界は泥水みたいにぐしゃぐしゃで、最悪なことばかりだったけど、二人と過ごした日々だけは大切な大切な宝物だった。
暗い雲はやがて雨を運んで来た。ポツポツと小さな飴玉みたいなそれは徐々に密度が増していって、クロエの身体を打った。
急いで王立図書館に避難する。そこも以前と変わらなかった。
ここは、彼女にとって聖域だった。
逆行前と合わせて、図書館にある本はほとんど網羅した。
難しい政治や経済の書物は、ユリウスの力を借りて頑張って読破したっけ。悲しいことに、もう半分も頭から抜け落ちてしまったけれど。
(まだ時間があるわね)
クロエは図書館の奥まで進んで、一冊の本を手に取る。最後にもう一度読もうと思った。
――面白い本を読んでいるな。
二人とも大好きだった本だ。
旅をする王子様の話。彼は旅の中で本当に大切なものを見つけたらしい。それは、目には見えない宝物。
(私の本当に大切なものは……)
クロエの大切なもの。
それは、愛する二人――母とユリウスの幸せ。それだけだ。
叶えるためには、自分がこの世界から消えることが一番の近道だと思った。
自分が生まれて来なければ、世界をまとう時間軸は正常になる。
そうなればきっと、母にもユリウスにも素晴らしい未来が待ち受けているはずだ。
嵐が来るまで、あと少し。
◆
(あと少し……あと少しだ!)
ユリウスは体内のありったけの魔力を右手に集中させていた。これさえ動けば、懐に忍ばせてある指輪が手に取れる。
それは、アストラ家の末裔である母から譲り受けた魔石の指輪だ。
その中には、代々受け継いだ膨大な魔力が内包されてある。その力を利用すれば、この魔法は解けるはずだ。
彼は母親から「大切な人を守るときが来たら使いなさい」と、この指輪を託された。
「では、母上をお守りするときが来たら存分に使いますね」と彼は答えたが、母は「いつかきっと、あなたの本当に愛する人のために使う日が来るわ」と、苦笑いをしていた。
幼い彼にはその意味がよく分からなかったが、今なら理解できる。
この力は、クロエだけのために使うのだ。
(クソッ……! 間に合ってくれっ……!!)
◆
雨は勢いを増して、図書館の窓を打った。ごろごろと遠雷の音が聞こえて、渦巻く雲が暗い影を落とす。
(そろそろかしら……?)
クロエはおもむろに立ち上がる。
そして、図書館の裏にある丘の上の鐘塔へと足を進めた。
時間を逆行する条件を、彼女はずっと考えていた。
魔力と、ペンデュラム。これは絶対に必要不可欠だ。そして、過去へ戻りたいという強い「想い」。自分は、どうしても過去へと戻りたい理由がある。こちらも条件は達成だ。
あと一つの、最後のひと押し……それは、これらを動かす推進力。
稀代の偉大な魔導士は、きっと己の魔力だけで過去へ逆行できたのだと思う。しかし、自分の魔力量はその域へ達していない。
ならば、外部からとてつもなく大きな刺激を与えて発動への起爆剤にするのだ。
それが、あのときの落雷なのだとクロエは感じた。
あの瞬間は、奇跡的にこれらの三つの要素が重なって、過去へと逆行できたのだろう。
……だから、もう一度同じ奇跡を起こせばいい。
雨風はいっそう強くなって、クロエの身体に降り注いだ。
冷たさはやがて肉体を越えて心まで麻痺させる。もはや彼女の感情も無感覚だった。
ただ、自分のすべきことは母と父が婚約する前まで遡って、ペンデュラムに記憶を託して、母を不幸の連鎖から開放する。
そうすれば、母には新たな道が生まれるし……ユリウスも復讐に黒く汚れた自分よりも相応しい真っ白な令嬢との縁談があるだろう。
ゆっくりと鐘塔の階段を登る。嵐は間近に迫っている。
頂上まで辿り着いて、王都を一望した。あのときと同じで、ここからの眺めは最悪だった。
街は深い湖に沈んでしまったように、静かで、雨が弾けて水底の泥が巻き上がっているようだった。
風が叩き付けるように彼女を襲って、ふらりと飛ばされそうになる。
もうすぐ全てが終わる思うと、あのときと違って気持ちは軽やかだった。自然と笑いが込み上げてくる。
さぁ、
自分が消えた、輝かしい未来へ――……。
「クロエっ!!」
そのとき、ユリウスが丘の上を駆け上がって来た。
息せき切らして、ただクロエだけを見つめている。
「おいっ、クロエ! 早まるな!! 待ってくれ!!」
彼は声帯が千切れるくらいに、必死に叫ぶ。身体中の力を振り絞って。
だが、前だけを向いている彼女の瞳には彼は映らず、その叫び声は雷の音に掻き消された。
(頼むっ! 間に合ってくれっ!!)
ユリウスは全速力で鐘塔の階段を駆け上がる。
絶対にクロエの二度目の逆行を阻止してやらなければと、想った。
彼女には何がなんでもこのまま今の時間軸を生きてもらうのだ。一人で逃げるなんて許さない。
そして、
自分と、二人で、未来へ――……。
雷鳴はどんどん激しくなった。
クロエは懐からペンデュラムを取り出す。
握りしめたペンデュラムが微かに光り出した。
そして、たちまち流れ星のような煌めきを帯びる。
「クロエっ!!」
次の瞬間、ユリウスが彼女のもとへ辿り着いた。
動き始めた振り子は、ぴたりと静止する。
「なぜ……」クロエは目を見張って震える声を上げた。「なぜ……ここに来たの……?」
にわかにユリウスが彼女を強く抱きしめる。
「もう、こんなことは止めてくれ……!」
「嫌よっ!」彼女は頭を振る。「もう、私にはこうするしかないの! 私さえいなければ――」
「そんなことはない!」
「でも……私は、この手で三人の人間の人生を終わらせたわ! 人殺しなんて、生きているだけで罪よ……!」
「それでも……俺は、僅かでも良心を持った人間は再びやり直せると思う! 例え罪を犯したとしても、贖罪の気持ちがあるのなら、罪と向き合いながら、もう一度人生をやり直していいんだよ!」
「っ……!」
クロエは一瞬だけ言葉に詰まった。
ユリウスは震える彼女の瞳を覗き込む。
「だから、俺と一緒にやり直そう? 何年……いや、何十年かかってもいい。俺と一緒に、失った信頼を取り戻すんだ! 俺は、ずっと君の隣にいるから……!」
「…………」
クロエの気持ちがぐらりと揺らぐ。
しばらく暴風と雷鳴と豪雨で、胸の中の激情が掻き消された。
二人の間には静寂。
ただ、視線を交わすだけだった。
次にクロエが我に返ったのは、雷で周囲に閃光が走ったとき。
彼女は同時にユリウスを突き飛ばして、握りしめた振り子を高く掲げた。
「クロエっ!」
再びユリウスが彼女を抱きしめる。そして、瞬時に己の持つ魔力を最大限に放った。
刹那、大地が割れるようなけたたましい轟音を鳴らして、雷が二人を撃った。
振り子が、揺れる。
そして世界が真っ白に染まった。
◆◆◆
真っ白い世界が晴れてクロエが目を開けると、そこは――未だユリウスの腕の中だった。
バチリと二人の目が合う。
さっきまでとは打って変わって頭が冷えた彼女は、途端に恥ずかしくなって、思わず離れようとする。しかし、彼はぎゅっと力を込めて抱きしめ、絶対に逃さなかった。
「……なぜ、ついてきたの?」と、諦めたようにクロエがぽつりと呟く。
「クロエのことが好きだから」
彼の直接的な言葉に、彼女の頬はたちまち真っ赤に染まった。
「わっ……」少しして、やっとの思いで声を絞り出す。「私は……平気で人を傷付けるような最低な人間だわ。あなたのような高潔な方には……似合わない」
「それでも、俺は君が好きなんだ」
ユリウスは微笑みながら、クロエの頬をそっと撫でた。
「君の――優しいところも、真面目なところも、強いところも、臆病なところも、時には卑劣な手を使うところも、打算的なところも、本当は寂しがりやなところも……全部ひっくるめて、俺はクロエのことが好きだから」
「っ……」
ユリウスの包み込むような優しさに、クロエは言葉が出なかった。
本当は嬉しかったのだ。彼の前では自分の嫌な面もあんなに多く晒したのに……それなのに、全てを受け入れてくれるなんて。
彼の未来のためにも、ここは拒絶しないといけないのに、彼女にはその勇気が持てなかった。
だって、彼の腕の中は、とても柔らかくて心地が良いから……。
「ここは……どこかしら?」
クロエは、敢えて今は答えを言わずに、まずは現状を考えることにした。
不覚にもユリウスを連れて来てしまった。
本来ならば、自分が生まれる前の世界へ戻って、ペンデュラムを通しておそらく記憶を受け継いだであろう母に、父と結婚しない選択を選んでもらうはずなのに。
この世界に、生まれて来なくなる予定だったのに。
なのに、自分も彼も、まだこの世界にいる。
ということは、二人一緒に前とは異なる時間軸に飛ばされただけなのだろうか。
「君の瞳の色は変化している」
「あなたもよ」
互いの双眸を交差させる。
どちらともオッドアイが逆位置に変わったということは、確実に時間軸も移動したのだろう。時の女神はクロエのほうに味方をしたのだろうか。
彼はきょろきょろと辺りを見回してから、
「今の時間軸は不明だが……たしかなのは、どこかの貴族の屋敷だな。ちょっと探ってみようか」
「…………」
彼女は黙りこくったまま、じっと近くの扉を眺める。
刹那、心臓がトンと跳ねて、ピンと身体が強張った。
「まさか……ここは…………」
その景色は見覚えがあった。
自分の瞳と同じ色のクロムトルマリン色を基調とした壁紙に、茶色い家具は、まるで朝の森の中にいるみたいに心が落ち着いた。
「クロエ? 君はここがどこか分かるのか?」
彼は彼女の顔を覗き込む。
そのとき、
――オンギャアァァ……
にわかに、扉の向こうから赤ん坊の鳴き声が聞こえた。
「っ……!」
クロエはユリウスの腕をするりと振りほどいて、扉の向こうへと駆け出す。
「おい、待ってくれ!」
彼もすかさず彼女の後を追った。
衝動に駆られるように、扉を開ける。
そこには――…………、
「……今日、来ると思っていたの。
クロエ、ローレンス殿下」
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