85 暴動
「聖女――いや、偽聖女を出せーっ!!」
「あの女は魔女よ! 人殺し!」
「今までよくも騙してくれたな!」
パリステラ家の門の前には、多くの平民たちが集まって、騒然としていた。
憎しみの内包された沢山の瞳が、クロエを見据えている。緊迫した空気が、瞬く間に屋敷を包み込んだ。
「こ、これは……どういうことだ……?」
ユリウスは動揺を隠せずに、微かに身体を仰け反らせる。
それは、彼が子供の頃に読んだ本――幼心に物凄く恐怖を覚えた、平民たちが立ち上がる革命のシーンと同じ状況だったのだ。
「……下へ行くわ」
一方、クロエは眉一つ動かさずに、踵を返す。この状況に少しも動じない彼女に舌を巻きながら、彼も慌てて後を追った。
「あなたたち、貴族の屋敷に討ち入りに来るなんて、この意味が分かっているのでしょうね?」と、クロエは無表情で淡々と言う。
物怖じしない気品ある公女の姿に、平民たちは少しだけ怖気付いた。
滅多にお目にかかれない高位貴族――しかも、これから皇族になる令嬢の堂々たる佇まいは、思わず見惚れ且つ畏怖の念を抱くようなものがあった。
それでも、この偽聖女からやられた仕打ちを考えると憤りの感情のほうが遥かに上まり、それは莫大な推進力となって、彼らを鼓舞したのだった。
「はっ!」
少しの沈黙のあと、一人の勇気ある男が口火を切る。
「貴族の家だって? パリステラ家はもうなくなっただろう!?」
「家門はなくなっても、私はウェスト公爵令嬢。そして、こちらはローレンス・ユリウス・キンバリー皇子殿下よ」
またもや少しの沈黙。さすがの勇敢な者も、帝国の皇子の登場には足がすくんでしまう。
「どっ……」今度は隣の男が言う。「どうせお前が誑かしたんだろうっ!? この魔女がっ!!」
「おい――」
婚約者への暴言にユリウスが気色ばむ。しかし、クロエがすっと手を伸ばして無言で彼を制止した。
「魔女とは……どういうことなのかしら?」と、聖女が静かに訊く。
「はっ! 誤魔化しても無駄だぞっ!!」
男が目配せをすると、一人の少年が前に出てきた。
彼は、腹部にぐるぐると包帯を巻いて、そこには鮮やかな赤い血が滲み出ていた。
「彼は――」
「忘れたとは言わせないぞ! この子はお前が以前に治療した少年だ!」
「あぁ……」
クロエは頷く。そう言えば、そんな少年がいた。たしか強盗に襲われて、刃物で深い怪我を負った……。
「クロエ……君は……」
ユリウスが血相を変えながら彼女を見る。嫌な予感が頭をかすめた。
まさか、彼女の魔法は――……。
「お前はこの子になにをやったんだ!? 治ったはずの怪我が元に戻って、おまけに前より悪化しているじゃないかっ!!」
男の怒気を孕んだがなり声が辺りに響いた。こだまを聞くように、周囲はしんと静まり返る。
平民たちの沈黙が、鋭い剣先のように暗に聖女を批判した。
「…………」
クロエは唇を噛む。指先から急激に全身が冷たくなった。
彼女は分かっていたのだ。
自分の魔法が、完全ではないことを。
(私は……お母様やユリウスのような強い魔力は持っていない…………)
たしかに、クロエは強かった。彼女はコートニーや、並みの魔導士たちを圧倒していた。
しかし、上には上がいる。
彼女は魔法が上達すればするほど、己の魔力の限界を思い知るのだった。
過去に母親は怪我をしたクロエを治してくれた。それは、傷なんてものは最初からなかったみたいに、完全に回復していた。
でも、クロエは――自身の魔力では、完全に時を戻し切ることができなかったのだ。
時間は、前へ進む。
それは決して変えることのできない世界の法則だ。
彼女が時を戻して治した怪我は、再び秒針を進めて、遅かれ早かれ元の状態に戻るのだ。
怪我や病を患った状態に……。
「落ち着け!」事態を収拾しようとユリウスが叫ぶ。「彼女が、聖女として人々のために誠心誠意働いていたのは事実だ。お前たちも、近くでその姿を見ていたはずだ。彼女ほど民に近い高位貴族はいない。そして……彼女も人間だ、失敗もあるだろう。魔法というものは完璧ではないのだ!」
我ながら苦しい言い訳だと、彼は心の中で舌打ちをした。案の定、剣呑な空気は停滞したままだ。
おそらく、クロエの魔力では完全に時を巻き戻して怪我や病を完治させる術がなかったのだろう。
あるいは――……彼は頭を降って、そのことは考えないようにした。
皇子の言葉に平民たちは黙り込む。
たしかに彼の言う通りだった。クロエ・パリステラ侯爵令嬢は、高位貴族でありながら身分なんて鼻にかけず、直に平民と触れて、傷を癒やしていった。そのことは誰しもが認める事実だ。
……しかし、それはまやかしだったのだ。
元気になったと思った家族や友人が、再び苦しむ姿を目にしたら、自然と聖女への憎悪が膨れ上がっていった。
それは一人や二人ではない。街の多くの住人が聖女の犠牲者だと知ると、彼らはやっと目が覚めたのだ。
彼女は、聖女ではなく――聖女の仮面を被った悪の魔女なのだと。
しばらくの無音のあと、クロエは大仰にため息をついた。
そして、
「いつまでも他力本願なのね。あなたたちは」
これまで見たこともないような冷徹な彼女の視線が、集った人々に向けられた。
平民たちは、思わず顔を見合わせる。これが、聖女の本性なのだろうか。やはり、彼女は魔女なのか。
「おいっ、クロエ!」
慌ててユリウスが咎めるが、彼女は聞く耳を持たない。
「たしかに、平民の暮らしは大変でしょうね。不憫に思う貴族もいることでしょう。あるいは、もっと搾取をしようとする貴族も。それで、誰かに助けてもらうのが当たり前? 平民だから庇護されて当然? ――そうやって、いつまでも天から落ちてくる露を待っていなさい」
八つ当たりもいいところだと、クロエは自嘲した。全ての原因は、不完全な己の魔法にあったのに。
しかし、事実もある。
人は、自らが動かなければ変わらない。待っているだけでは、狡賢い他者から奪われるだけだ。逆行前の自分のように。
彼女は、変えるために動いた。だから、新たな未来を掴むことができたのだ。
……それは、破滅しかない一本道だが。
「っこの……!」
一人の男がクロエに掴みかかろうと動いたとき、
彼女は、時を止めた。
――――、
「クロエ」ユリウス険しい顔をして彼女を見る。「君は……知っていてやったのか?」
「さぁ……どうかしらね」と、彼女は空惚けるだけだった。
「これは大問題だぞ。下手をすれば、君は本当に魔女の烙印を押される。パリステラ家のこれまでの数々の不正を鑑みると、君にとって非常に不利な状況だ。……俺でも、庇いきれるか分からない」
「……だったら、婚約破棄ね」
「なにを――」
「もう、終わりにしましょう。楽しい婚約ごっこはおしまい。この件が明るみに出たら、帝国側としても私との婚約は解消するしかないでしょう。……あなたには、もっと相応しい令嬢がいるはず」
「……本気で言っているのか?」
にわかに、ユリウスの顔が鋭くなった。
これで疑惑は確信に変わった。彼女は、魔法が不完全なのを分かっていて、敢えて放っておいたのだ。
それは……パリステラ家と共に沈むために…………。
「私は本気よ、ユリウス」クロエは睨み付けるように彼を見る。「私の手は汚れすぎている。皇子であるあなたには相応しくない」
「そんなことは――」
次の瞬間、クロエはもう一度魔法をかけた。
「っ……!」
それは、継母と異母妹にかけた時の魔法。
ユリウスの身体は、銅像のように固まって身動きできなくなったのだ。
クロエはふっと微笑んで、
「やっぱり、まだ魔力は完全に戻っていなかったのね。さすがに一国の結界を張るくらいの魔力量を消耗したら、元に戻るのにかなりの時間が必要よね」
彼女はこの時をずっと待っていた。
逆行前と同じ――嵐が来るタイミングを。
ユリウスのことだから、今回はなんとしてでも阻止をしに来ることだろう。
しかし、お誂え向きにも彼は先の結界で魔力を大幅に消耗してしまった。今なら、彼の魔力を跳ね除けることができるはず。
そして、もう一度向かうのだ。
丘の上の鐘塔に。
「クロエ……!」
「さようなら、ユリウス……」
クロエは一人、歩き出す。
屋敷には多くの平民たちと、ユリウスだけが取り残された。
雨なのか涙なのか分からない粒が、彼女の足元に染みを付けた。
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