57 プロポーズをされてしまいました!
風の音だけが鳴っていた。
「っっ…………!!」
クロエは一瞬で頭が真っ白になる。
帝国の第三皇子……求婚……。それらは、彼女の世界からあまりにもかけ離れた言葉で、すぐには呑み込むことができなかったのだ。
みるみる顔が上気する。しかし、体内は氷魔法でもかけられているような、痺れた感覚だった。
「クロエ」
ユリウスはそんな狼狽する彼女に考える間を与えることなく、畳み掛けるように続ける。タンザナイトの瞳は、まるで彼の固い決意を表しているかのように、強い光を帯びていてた。
「いいか、この婚姻は君にとってもメリットが大きい。一番はキンバリー帝国が君の後ろ盾になるということだ。仮にジェンナー公爵家と婚約破棄になっても、君は更に強力な権力が付く。令嬢として名誉も傷付かないから、社交界でも大きな顔ができる。それに、辛い思い出の残る地を離れて、煩わしい家族のことなど忘れて暮らせるんだ。万が一だが、復讐でミスを犯したとしても、新天地でやり直せるんだ。だから――……」
ふと、彼は押し黙った。
しばしの沈黙のあと、軽く息を吐きながら額を押さえ、天を仰ぐ。
「いや……悪い。違うんだ……」
ついさっきとは打って変わって、不安定な声音に彼女は戸惑った。
また風の音。
静かな景色とは正反対に、ユリウスの鼓動は早鐘を打っていた。
もう、動き始めた衝動を抑えられない。
どうせいつかは伝えなければいけないことだと、覚悟を決めた。
背筋を正して、目の前の愛する人を見る。
「俺が言いたいのは……俺は、君のことが好きだということだ、クロエ」
「っ……」
クロエは目を見張る。
息が止まった。魔法を発動させていないのに、時間も静止したみたいだ。
彼は彼女の瞳を見る。新緑のようなガラス玉に吸い込まれそうだった。
「クロエ・パリステラ侯爵令嬢。私、ローレンス・ユリウス・キンバリーはあなたを愛しています」
彼女の手に触れて、おもむろに跪く。
「私の妻になっていただけませんか」
またもや、風が二人をくすぐった。空気は冷やされているはずなのに、身体が火照る。
彼女は身じろぎせずに、クロムトルマリンの瞳だけで彼を捉えていた。
(今、ここでユリウスの手を取ったら……)
きっと、楽になるだろう。直ちにスコットと婚約破棄をして、憎々しい家族ともおさらばだ。
全てを放り投げて、帝国で皇子の妻としての新しい生活。それは、なんて魅力的なことだろうか。
(それに……私も、ユリウスのことが…………)
きっと、初めて出会ったときから、そうだったのだと思う。底知れぬ深い闇の中を這うように生きていた自分を、光の中に連れ出してくれた。
自分はもう、恋に落ちているのだ。
(それでも――……)
クロエは、静寂を破る。
「ごめんなさい」
瞬時に、ユリウスの輝く瞳が曇った。
「なっ……なんで…………」
今にも消え入りそうな掠れた声で呟く。
彼女は、強い眼差しを彼に向けた。
「私は……逃げたくないの。きっとあなたの言う通り、私が過去に戻って来たのは『強い想い』があったのだと思う。だから、想いを遂げるまでは、戦いを止めたくない」
びゅうと、ひときわ大きな風が吹いた。
互いに互いの瞳を見つめて、静寂という空間の上に立つ。
ややあって、
「そうか」ふっとユリウスは笑いながら立ち上がった。「それなら仕方がないな」
「本当にごめんなさい……」
胸が痛くて、クロエは思わず顔を伏せる。心を閉ざすように、ぎゅっと目を閉じた。
もう、これ以上は考えたくなかった。
だって、そうしたら、頭の中が彼のことでいっぱいになってしまいそうだったから。
少しの気まずい時間が流れて、
「じゃあ、婚姻はクロエの復讐が終わったらだな」と、ユリウスは明るい声音で言った。
「えぇっ!?」
クロエはがばりと顔を上げる。見ると、彼はついさっき求婚を断られたとは思えないほどに、清々しい顔をしていた。
「な……なにを言っているの」
「君の意思を尊重せずに先走ってしまった。まずはクロエの『想い』を一緒に叶えようか」
「っつつ……!」
もぞもぞとした妙な感覚が彼女の身体を駆け巡った。浮かれている場合じゃないのに、幸福な気分に包まれる。
嬉しくて、恥ずかしくて。……でも、胸が苦しくて。
「それで――」ユリウスは再びクロエの双眸を見る。「君の復讐が終わったら、改めて正式に求婚をする。そのときは……返事を待ってる」
「そっ……」彼女は顔を背ける。「そんなの、分からないわ」
彼女は嘘をついた。
もう、答えは決まっているのに、なにを言っているのだろう。
ユリウスはポンと彼女の頭を撫でて、
「まだ時間はあるから、じっくり考えてくれ。君の今後の人生のこと。復讐が終わって、自分が本当に何をしたいのか。俺は、できる限りその手伝いをしたい。
……ま、この身分だから君に苦労をかけることもあるかもしれないが、毎日三食とおやつ付きだし、なに不自由させない宮殿での快適な暮らしを保証しよう。希望するのなら、あそこのパティシエを引き抜いて毎日スコーンを焼いてもらおうか」
「毎日スコーンは、さすがに飽きちゃうわ」と、彼女はくすくすと笑う。
「本当に、その通りだ」と、彼は肩をすくめた。
穏やかな空気が戻って来た。胸の高まりもだんだんと収まって来て、ちらちらとそよ風が草木を揺らしている。
「では、侯爵令嬢!」いつものユリウスの軽快な声。「これからどうするんだ? お誂え向きにも、俺は権力と金だけはある。上手く利用してくれ」
「そうね……」クロエは少し思案してから「じゃあ、一つ用意して欲しいものがあるの。頼めるかしら?」
「なんなりと、お嬢様」
彼女は彼に近付いて、そっと耳打ちをする。すると、彼はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「えげつないねぇ」
「二人まとめて始末するわ」
「了解。では、俺は早速準備に取りかかるとするよ。――と、その前に」
出し抜けに、ユリウスはクロエの背中に手を置いた。
そして、呪文を唱えると、
「黒い……煙?」
彼女の背中から、黒いもやのようなものがゆらゆらと出て行って、やがて消えた。
「呪いがかかっていた。おそらく、闇魔法の一種だろう。消滅させたからもう大丈夫だ」
「闇魔法!?」
彼女は目を剥く。闇魔法は人の生命や精神に干渉する危険な魔法で、条約で大陸中の各国で禁止されているものだ。それが、自分に……?
「心当たりは?」
「……あるわ」と、彼女は頷く。きっと継母や異母妹だろう。逆行前からおぞましい人間たちだとは思っていたが、まさか禁忌とされる魔法まで手を出すなんて。
「これについても調査しておこう。君も警戒を怠らないように」
「分かったわ。教えてくれて、ありがとう」
「俺が影を通して、いつも君を見ていることも忘れないように」
「な……なにを言っているのよっ!! しっ、失礼するわ! ご機嫌よう!」
クロエは急いで踵を返す。恥ずかしさで真っ赤になった顔を、彼に見られたくなかったのだ。
「見ているからな! 毎日だ!」
ユリウスの空回りの声だけが、丘の上に響いていた。
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