第二章 派手に、生まれ変わります!

33 派手に、逆行しました!

  ………………、


  ………………、




 チクタクと、秒針の音がする。

 それは幾重にも連なって、クロエの耳をつんざくように激しく鳴り響いていた。


 目を閉じているのに、景色が揺れて、振り子のように行ったり来たりしている。

 身体が熱い。

 けたたましい音と、芯から沸るような灼熱が、彼女を襲った。

 




「――お母様っ!!」


 弾かれたような衝撃に、目を見開く。

 少しの間ぐらぐらと目の前が揺れて、やがて収まった。


「ここは……?」


 ぼんやりと、周囲を眺める。今、ベッドの上にいるようだ。

 それにしても、なんだか見覚えのあるような…………、


「クロエお嬢様っ!」


 そのとき、侍女のマリアンが、興奮した様子でクロエのもとに駆け寄って来た。


「マリ……アン……?」


 卒然と抱きしめられて、目が点になる。思考が固まって、連動して身体も動けなかった。

 悲しい別れをした乳母が、目の前にいるなんて……信じられない。


「心配したんですよ! 倒れてからもう一週間もたちましたから」と、侍女は涙を流した。


「えっ……!? 倒れたって、どういうこと……?」


 まだ頭の動きが追い付かなかった。

 たしか、父親から娼館行きだと告げられて、思い出したくない嫌なものを見て、衝動的に図書館へ向かって、鐘塔に登って、雷に撃たれて――……。


「うぅっ……!」


 にわかに頭に電撃が走る。ぎゅっときつく絞られるように、じんじんと痛んだ。


「あぁっ、大丈夫ですか、お嬢様。ずっと寝込んでいらっしゃったんですもの。まだ身体がお辛いですよね」


 マリアンは主人から離れようとしたが、クロエはぎゅっと彼女を抱きしめた。

 彼女は一瞬目を見張るが、優しく抱きしめ返す。懐かしい侍女の温かさが、クロエのささくれ立った心をじわりと癒やしてくれた。




「私、眠っていたの?」しばらくしてクロエはやっと声を出す。「一週間も?」


「えぇ、そうですよ。お嬢様は一週間前に突然倒れまして、しばらくは触れたら火傷しそうなくらいの高熱だったんですから」


 マリアンの話によると、クロエは一週間前の晩餐の最中に突然倒れて、それから急激に体温が上がって、今の今までずっと意識不明の状態だったそうだ。

 きっと母親が死んでからの諸儀式が終わって、緊張状態から解放されたことで疲れが一気に吹き出たのだろう――と、医師が言っていたそうだ。


(あれは、夢、だったの……?)


 まだ秒針のこだまが耳に張り付いている。

 継母と異母妹が来てからの日々――あの地獄のような日常は、高熱が生み出した幻覚だったのだろうか。


 それにしても、現実味を帯びていた。

 あの、ゴミ箱を漁って残飯を口にした感触……そのむごたらしい記憶は、今でも身体の中にこびり付いている。


 そして……ユリウスと一緒に食べたスコーン。彼からもらった多くの食べ物。それ以上のたくさんの優しさ。

 それらは彼女にとって、決して忘れることのない、かけがえのない大切な思い出だった。


 不意に、ユリウスの笑顔が脳裏に浮かぶ。

 彼は、幻なんかじゃない。なぜだか、そう確信できた。


(ユリウスに会いに行かなきゃ……!)


 にわかに胸の中に妙な焦燥感が湧き出て、ベッドから出ようと身体を起こす。


「お、お嬢様! 無理はいけません!」


「でも……」


「まだ目が覚めたばかりで、治りきっていないのですよ。せめて、お医者様に診てもらうまでは、横になっていてください」


「今すぐ会いたい人がいるの!」


「大丈夫です、スコット様には連絡しておきますから。きっと、すぐに飛んで来ますよ」と、マリアンはくすりと笑った。


「…………」


 クロエの顔がくしゃりと歪む。その名前に嫌悪感を覚えた。夢現でふわふわと浮かんでいた心が、みるみる黒々と染まった。


 スコット・ジェンナー公爵令息。

 彼は、最後まで自分の話を聞いてくれなくて、信じてくれなくて…………そしてコートニーを取った。


 ――ただの、ゴーストだろう?


 あの言葉が今も脳裏から離れない。

 裏切られた絶望感は、胸を波状の刃のナイフでぐりぐりと抉り取られているかのように、今でも彼女の心の奥にくすぶっていた。



「あっ、その前に旦那様に報告しなければなりませんね。お嬢様のこと、心配しておりましたから――」


「やめてっ!!」


 思わず、大声を上げた。マリアンは驚いたように目を丸くして、ぱちくりと主人を見つめている。

 しばらく、水を打ったような静寂が、二人の間に落ちた。


「ごめんなさい……」数拍してクロエが口火を切る。「まだ体調が万全でないから、人と会う気分じゃないの……」


「そう、ですか」と、マリアンは頷いたが少し戸惑った。


 さっきは婚約者に会いに行くと言ったのに、父親との面会は「人と会う気分じゃない」と拒否。

 やはり、母親の死が未だに尾を引いているのだろうかと、胸が痛んだ。


 侯爵と侯爵夫人はずっと不仲で、その影響で侯爵はもう長いあいだ娘とも活発な交流を取っていなかった。

 だから、積み重なったわだかまりが母の死によって爆発して、こんなにも頑なに拒んでいるのだろうか。


「承知しました。旦那様にはまだ黙っておきましょう」と、彼女は片目を瞑る。


 クロエは一安心してふっと軽く息を吐いて、


「放っておいたら、いつか気付くでしょう、あの人も」


 軽く肩をすくめた。マリアンは微苦笑する。


「では、私はお医者様を呼んで参りますので。お嬢様、くれぐれも安静にしておいてくださいね」


「分かったわ。ありがとう」




 マリアンが辞去して、部屋の中にはクロエ一人が取り残された。


(懐かしいわね……)


 ぐるりと辺りを見回した。

 彼女が今いる場所は、生まれたときからの彼女自身の部屋だ。異母妹から奪われた部屋。空間はもちろん、持ち物も、全てを奪われた。


 だが、それも今は、まだこの手の中だ。



 そのとき、

 ふと……、胸元がきらりと光った。


 目を落とすと、そこには母から託されたクリスタルのペンデュラムが、きらきらと虹色に輝いていた。

 無意識に、ぎゅっと、掴む。

 刹那、洪水のような激しい魔力の波が彼女を襲った。身体中にびりびりと電撃が走る。


(やっぱり、夢なんかじゃないのね……!)


 ペンデュラムから流れる魔力を感じる。

 それは、彼女の体内を駆け巡って、時間軸が過去に戻ったことを示してくれていた。

 今の彼女には、時間の流れを手に取るように感じ取れたのだ。


「っふふ……ふふふ!」


 思わず、笑いがこぼれた。

 自分は、過去に逆行したのだ。それも、継母と異母妹が来る前の。


(お母様……)


 自然と母の顔が浮かんできた。大好きだった母。しかし、今は絡まった毛糸みたいに複雑な心境だった。

 お母様が大好き。でも、嘘つきのお母様なんて大嫌い。


 それでも……貶められた母の名誉を回復させたい。

 侮辱なんて、決してさせない。



 だから――、

 今度はゴーストなんて絶対に呼ばせない。



 卒然と、その衝動が彼女の清らかだった心を突き動かした。


 屋敷の者にも、他の誰からも……自分を見てもらいたい。存在を認めて欲しい。

 私はもう、幽霊令嬢なんかじゃ、ない。



 クロエの胸に、黒い炎が宿る。


「今度は……派手に生きるわ…………っ!」


 そう、強く誓った。



 ――見られたい。


 それは、彼女の傷付いた心を、深く深く支配していた。 




 それから、


 彼らには、


 ………………、


 ………………、


 ………………、





◆◆◆





 ローレンス・ユリウス・キンバリーが目を開けると、そこは見慣れた馬車の中だった。

 静かな空間に、心地よい馬蹄の音だけが鳴り響いている。


「ここは……」


「お目覚めですか、殿下」目の前には側近のリチャード。「随分ぐっすり眠っていらっしゃいましたね」


「…………」


 ユリウスは右手で頭を抱えながら、眉間に皺を寄せている。


 長い夢だった。そして、酷く現実味のある夢。

 夢の中で出会ったクロエという少女は、美しくて優しくて勤勉家で……でも、とても不幸で…………。


「どうかされましたか?」リチャードは心配そうに主人を見た。「まさか身体の具合が?」


「いや……」


「もうすぐ到着しますよ。着いたらすぐに帝国領事館の大使と会食です」


 彼の発言にユリウスは目を剥いた。


(そういうことか……)



 ふと、ズボンのポケットに違和感を覚えた。

 おもむろに中身を取り出すと、それは白いシルクのハンカチで。


 「ユリウス」と、控えめに刺繍が施されていた。




 

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