32 生まれて来なければ良かったのです

 クロエは屋敷を飛び出した。


 無我夢中で走った。屋敷の裏口から、小道を通って大通りへ、図書館へ繋がる道へ。

 なにも考えずに、ただひたすら、全速力で、走っていた。


 雨が降り出した。

 はじめはぽつぽつと小雨が、やがて大粒になって、彼女の頬を叩いた。


 ――ただの、ゴーストだろう?


 卒然と、スコットの……元婚約者の声が頭に響く。

 それは貼り付く粘膜のように、ぬるぬると彼女の心を暗く支配していった。


 なんで、こんなことになったのだろう……。


 彼にだけは信じて欲しかったし、話を聞いて欲しかった。ちゃんと向き合えば、分かり会えるはずだった。

 だって、これまでも、嬉しいことも悲しいことも、ずっと二人一緒に乗り越えて来たのだから。


 でも……もう昔の彼は、どこにもいないのだ。




 図書館は既に閉まっていた。

 もう夜も近いし、この悪天候だから早く閉館したのだろう。もともと、こんなずぶ濡れで図書館に入るなんてできなかったので、変な安堵感があった。

 

 もし、今の状態でユリウスに会いでもしたら、めちゃくちゃに掻き乱された泥みたいな感情を、全て吐き出しそうだったから。

 彼とは、楽しい思い出ばかりを共有したかった。



 そっと踵を返す。

 向かうのは、パリステラ家の屋敷ではなく、図書館の裏の丘の上。

 今の彼女の居場所は、もう、そこしかなかった。





◆◆◆





「クロエ……!?」


 ユリウスがぼんやりと馬車の中から外を眺めていると、前方に人影が浮かんできたと思ったら、びゅんと風のように過ぎ去って行った。


 激しい雨が窓を打って、はっきりとは見えなかったが、その人物はクロエのような気がした。

 同時に、どことなく胸が不穏に侵食されて、すぐに追わなければと感じたのだ。


「おい、止めてくれないか。クロエがいた」と、彼は前に座る従者のリチャードに言う。


「いけません、殿下。これから領事館の大使と面会ですよ」


 しかし、彼は主の願いをぴしゃりと跳ね除ける。


「だが、クロエが……こんな雨なのに、風邪でもひいたらどうするんだ!」


 ユリウスは食い下がるが、職務に厳格な側仕えは、頑として首を縦に振らなかった。


 今日は、この国にある帝国領事館の責任者との会談だ。皇子の秘密裏の留学を無事に果たせるためには、どうしても協力者が必要だった。だから、皇子のために大使が水面下で働いてくれていたのだ。

 そんな重要な人物との面会をすっぽかすなんて、ありえない。


 しばらく、馬車の中に沈黙が落ちた。

 皇子は不服そうに眉根を寄せて、側近は困ったように眉尻を下げている。


 ふっと、ユリウスが息を吐いた。


「……悪い。大使には最大級の埋め合わせを用意してくれ。仮に望むなら、俺の名で本国の中枢にねじ込んでも構わん」


「はいぃっ!?」


 リチャードは目を剥く。主の無茶な発言に、開いた口が塞がらなかった。

 従者が硬直しているうちに、皇子は走行中の馬車の扉を開けた。


 そして、


「じゃ、あとは頼んだぞ」


 勢いよく馬車から飛び降りた。


「でんっ――!?」


 リチャードがはっと我に返ったときは、ご主人様は既に小さくなっていた。



 ユリウスは受け身を取って転がり落ちる。そして、すぐさま起き上がった。


(待ってろ……クロエ……!)


 妙な胸騒ぎがした。クロエに、なにか大変なことが起こりそうな気がする。

 早く……早く彼女を捕まえなければ。


 でないと、そのまま彼女が遠くへ行ってしまいそうだったから。

 雑然とした不安が強く胸を突いた。





◆◆◆





 空は嵐を運んできそうだった。

 土砂降りの雨、冷たい風も強くなって、痩せ細ったクロエの身体に容赦なく降り注いだ。


 やっと到着した丘の上から、王都の街並みを眺める。昨日まで鮮やかだったその景色は、今では豪雨で灰色に染まっていた。


 明日、自分は貴族籍から外されて娼館へ行く。

 もう、パリステラ家の人間ではなくなるし、唯一の心の支えだったユリウスにも二度と会えなくなる。


 ――ただの、ゴーストだろう?


 またぞろ、かつての婚約者の言葉が脳裏をかすめた。

 ゴースト、幽霊令嬢……これらの蔑称をコートニーやクリスから呼ばれることは、もうなんとも思わなかった。彼女らに対しては、とうの昔に諦めていたから。


 でも……まさか、かつてあんなに大好きだった婚約者から言われるとは思わなかった。

 それは非常に大きな刃となって、彼女の胸を深く抉ったのだった。


「っ…………!」


 衝動的に駆け出した。後ろへ高くそびえ立っている塔鐘へ。すっかり古くなった階段を、息を止めるようにして、一気に駆け上がった。


 頂上からの眺めは最悪だった。

 街は深い湖に沈んでしまったように、静かで、雨が弾けて水底の泥が巻き上がっているようだった。

 風が叩き付けるように彼女を襲って、ふらりと飛ばされそうになる。


(ユリウスと一緒に見たときは、最高だったのにな……)


 かつて、彼に連れられて、ここまで来たときがある。

 あの日は彼方まで晴れ渡っていて、空と街と遠くにそびえる山々の対比が美しくて。新鮮な空気がすっと胸の中に入って、代わりに心の中の悲しみが去っていくような、そんな爽やかな景色だった。


 でも、今は………………。


 遠くから雷鳴の音が聞こえた。

 その音に共鳴するように、彼女は嗚咽する。


「うっ……うぅ…………」


 滂沱の涙は止まらなかった。走馬灯のように、思い出とともに溢れ出す。


 なんで、こんなことになったのだろう。

 なんで、お母様は死んでしまったの?

 なんで、お父様はお継母様と異母妹を選んだの?

 なんで、私は魔法を使えないの?



「クロエっ!!」


 そのとき、ユリウスが丘の上を駆け上がって来た。

 息せき切らして、ただクロエだけを見つめている。


「おいっ、クロエ! 早まるな!! 待ってくれ!!」


 彼は声帯が千切れるくらいに、必死に叫ぶ。身体中の力を振り絞って。

 だが、涙に覆われた彼女の瞳には彼は映らず、その叫び声は雷の音に掻き消された。



 クロエは割れたペンデュラムを握りしめた。

 それは、もう炭のように真っ黒になっていて、微かな輝きさえも失っていた。まるで、元気だった母が死に蝕まれているような、悲痛な姿だった。


 涙は止まらない。

 心の奥底から、これまで彼女の持つ芯の強さで堰き止めていた感情が、どっと溢れ出した。


 お母様は、なぜ「愛する人と必ず幸せになれる」なんて言ったの?

 スコットとは幸せになれるどころか、コートニーに奪われたじゃない。嘘つき。お母様の嘘つき。

 私の目だって、結局きらきらにならなかったわ。なんで嘘をついたの?

 魔法も、一度たりとも使えなかった。嘘ばっかり。お母様の言っていた「いつか」なんて来なかったじゃない。嘘つき。お母様の嘘つき。

 あんなに頑張ったのに、婚約者も、魔法も、全部が異母妹のもとへ行ってしまったじゃない。

 どうして、こんなことになったの? なにがいけなかったの?

 嘘つき。嘘つき。お母様の嘘つき。嘘つき。嫌い。大嫌い。お母様なんて大っ嫌い。

 なんで、私を置いて行ってしまったの? なんで、一人で先へ行ってしまったの?

 なんで? なんで。なんで。なんで…………、




 こんなことなら、私なんて、生まれて来なければ良かった――………………!!





 そのとき、握りしめたペンデュラムが微かに光り出した。

 そして、たちまち流れ星のような煌めきを帯びる。

 すると、闇夜のように黒々としていたそれは、元通りの虹色に輝くクリスタルに変貌を遂げていた。

 光彩は更に増していく。



 振り子は、動き始める。


 クロエの魔力を輝きに変えて。



「クロエっ!!」


 ユリウスが彼女のもとへ辿り着く。

 刹那、大地が割れるようなけたたましい轟音を鳴らして、雷がクロエを撃った。



 振り子が、揺れる。



 そして世界が真っ白に染まった。










ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー







以上で第一章は終わりです。

ストレス展開が続く中、最後まで読んで下さって有難うございました。

第二章は週末頃に開始予定です。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る