31 終わりました

※女性を侮辱するような非常に不快なシーンあり※








 父の執務室に呼び出された。


 これまで、ずっとクロエのことを無視していたメイドが、久し振りに彼女の部屋に来たと思ったら「すぐに旦那様の書斎へ行くように」と、まるで獣を追い払うようにせついて来た。


 追い立てられた彼女は、急いで部屋に向かう。

 胸の鼓動が早くなった。


(お父様は、一体なんの用かしら……?)


 父ロバートは、継母や異母妹たちからの虐遇には一切無干渉だった。妻や娘に注意をすることも、前妻の娘を庇いたてをすることもなく、ただ沈黙を貫いていた。


 そのせいで「侯爵が黙認している」という図式が成り立って、クロエへの当たりは際限なく、きつくなっていったのだ。


 ただ、彼自身は、娘への虐待に加担していなかった。彼女にとって、それだけは唯一の救いだった。


 しかし、実際のところは、彼はもう前妻の娘には関わりたくなかったのだ。

 なぜなら、それは不義の子で、自身の高貴な血を受け継いでいないからだ。彼も、そう信じ込んでいた。


 どこの馬の骨かも分からない下賎な血の娘なんて、自分の娘ではない。

 彼には、天才魔導士であるコートニーさえいれば良かったのだ。





 数ヶ月振りに前にした父の書斎の扉は、とても大きく見えた。

 クロエは、緊張で扉の前で少しだけ足がすくんだが、深呼吸をして落ち着かせた。凍りかかった手でノックをすると、父が応えた。


「失礼します……」


 足を一歩踏み入れて、目を剥いた。心臓がぎゅっと縮こまる。

 執務室には、父ロバートと……継母クリス、異母妹コートニーも勢揃いしていたのだ。


「っ……」


 思わず息を呑んだ。継母と異母妹の姿を見ると、油の切れた車輪のように肉体がぎこちなく凝り固まった。

 怖い……。

 二人に対しては、今や、ただ恐怖の念しか残っていなかったのだ。

 剣呑な重い沈黙が満ちていた。


「遅いわよ。一体、何時間待たせると思っているの? 旦那様は、あなたみたいにお暇じゃないのよ」


 ややあって、継母の険しい声がクロエを刺した。


「もっ……申し訳ありません!」と、反射神経のように彼女は頭を下げる。


「本当に愚図ね。お父様のお手を煩わせないで」とコートニー。


「申し訳……ありません…………」と、更に深く頭を下げた。ぎゅっと目を瞑る。また殴られるのが恐ろしかった。


「もう良い」ロバートが手を振って母娘を制止する。「私から話そう。――クロエ、顔を上げなさい」


「はい……」


 クロエはおもむろに顔を上げる。

 父親と目が合った。その双眸は酷く無感情で、娘に対する愛情など、少しも宿っていなかった。

 ぞくりと背中に悪寒が走った。

 眼前の六つの瞳。それらは、一様に彼女の姿を冷たく捉えていた。


(見られている……)


 ねちっこい汗が毛穴から出た。

 妙な高揚感だった。恐怖と悲愴感で胸が苦しいはずなのに、不思議にも興奮を覚えたのだ。


 ずっと、自分のことを無視して、いない存在だと……ゴーストだと揶揄していた家族。

 それが、今は自分を見つめている。


 もう、彼らと対峙することさえ苦しいはずなのに、相手にされて……覚えず嬉しい気持ちが芽生えた。

 そんな風に都合よく彼らに弄ばれて、一喜一憂して、泣いて笑って、感情を乱されて…………そんな自身に、激しい嫌悪感を覚えた。


 ユリウスは、クロエにとって、たしかに心の支えだった。

 だが、生まれてこの方ずっと育ってきた侯爵家の屋敷で、自分の居場所を取り上げられた孤独は……それとは別のところで彼女の精神を蝕んでいたのだ。

 長らく屋敷の中で一人ぼっちだった彼女にとって「見られている」という行為は、萎みきってしまった自尊心を大いに刺激したのも、事実だった。


 頭の中はぐちゃぐちゃで、もう彼女にも訳が分からなかった。

 ただ、一つだけ言えるのは……母が生きていた頃に戻りたい。それだけだった。



「クロエ」と、ロバートの冷たい声が頭上で響く。


「はい」


 彼女は父親の目を見て、はっきりと返事をした。

 少しだけ期待があった。父なら、少なくとも現状を変えてくれるのではないかと。

 唯一、血の繋がった、父なら……。


「お前の処分が決まった」


 しかし、彼女の淡い期待はもろくも崩れ去った。

 峻厳な父の視線が彼女を貫く。


「お前は明日付で貴族籍から抜けることとなった。そして、明日、娼館へやる」


「……………………っ」


 それは、終焉の宣言だった。


 刹那、身体中が逆立って、世界が真っ暗になった。太陽と月がひっくり返ったように、彼女の心は動転する。


「どっ……」掠れた声を一生懸命振り絞る。「どういう、こと……ですか?」


「どういうこと、って」ふいにコートニーが吹き出した。「お異母姉様が一番分かっているでしょう?」


「えっ……?」


「あなた、王都の街で男をたらしこんでいるんですってね?」と、今度は継母が彼女を制した。眉を大きく上げて、顔を歪めている。


「私、そんなこと――」


「とぼけないでちょうだい? 先日、コートニーが見たのよ。たいそう見目麗しい殿方とご一緒だったってねぇ?」


「それは……」


 ユリウスのことだと、クロエは悟った。

 きっと、彼と街で食べ歩きをしていたときに、異母妹に目撃されたのだろう。


「もう、びっくりしたわよ!」とコートニー。「お異母姉様にあ~んな美形の男がいたなんて!」


「彼は、ただの友人よ……!」


「えぇ~っ! あんなに仲睦まじく寄り添っていたのにぃ~? あたしはてっきり、もう身体の関係もあるのかと思っていたわぁ~。だって、お義母姉様ったら、男なら誰でもいいんでしょ?」


「……彼はそんな不誠実な方ではないわ」と、思わず言い返す。間接的にユリウスのことまで蔑まれて悔しかった。


「はぁ? あんたの意見なんて聞いていないのよ!」


 コートニーが手を上げる。ユリウスのお陰で少し肉の付きはじめた頬に、貼り付くように炸裂した。


「まぁまぁ、落ち着きなさい、コートニー。侯爵令嬢がこんな汚らわしいものに触れてはならないわ」とクリス。


「いいこと、クロエ? これは、あたくしたちからの恩情よ?」


「恩情…………?」


「そ。あたくし、どうしたらあなたが幸せになるか、考えてみたの。やっぱり、母として、娘にはやりたいことをやらせてあげたいもの。それで、そんなに殿方が好きだったら、娼館で働くのが一番じゃないか、って思ったの」


「…………」


 クロエは、もはや声を上げる気力もなかった。


「娼館ならお異母姉さまにぴったりじゃなくて? まさに天職でしょう! だって、あんな美丈夫をたらしこむことができるんですもの!」と、コートニーがせせら笑う。


「だから旦那様に相談をして、あなたを娼館へ行かせることにしたの。でも、そこで働くとなると、貴族籍なんか邪魔にしかならないでしょう? だから籍も抜けさせることにしたのよ。プロとして、貴族の身分は枷になることでしょうから」


「良かったわね、お異母姉様。しがらみがなくなって、これで心置きなく大好きな男遊びができるわよ!」


「話はクリスとコートニーから聞いてある。まさかお前がそんな娘だったとはな。ま、あの女の娘なら然もありなん、か……」


「……………………っ」


 総毛立った。心臓が凍り付いて、止まりそうだった。

 にわかに全身が震え始めて、がちがちと歯が鳴った。胸が苦しくて、吐きそうだった。


(どうして……そうなるの…………)


 ここでは、自分の意見なんて通らない。

 いつの間にか事実は歪曲されて、嘘が本当になって、誰も信じてくれなくて……父親でさえも…………。


「あっ、そうだわ!」コートニーの明るい声が響く。「初めての客は複数人を相手にするのがいいんじゃない? 男好きなお異母姉様なら、きっとできるはずよ!」


「そうね。クロエも刺激が欲しいわよね。ただの男遊びには飽きたでしょうし」


「あと! 初仕事の様子を公開する、ってのもいいかもね。きっと初日から一番の売上を叩き出すわよ、お異母姉様! あたし、スコット様と見物に行こうかしらぁ~?」


「あら、それはプロとして良い経験ができそうね。娼館のオーナーに話をしてみましょう」


 目の前で繰り広げられる、悪魔のような残忍な会話も、もう彼女の耳には入って来なかった。




 ふらふらと、執務室を後にする。

 幽霊のような足取りで辿り着いた先は、先日に火事が起こった、母親の遺品が眠る物置だった。


 そこは、もう煤だらけで、残された母の思い出も黒く塗りつぶされてしまって、クロエの心もぽっかりと黒い穴があいてしまったようだった。

 母の残骸をじっと見つめる。

 瞳は乾いて、一滴も涙が出なかった。




 どのくらい時間がたっただろう。クロエは静かに踵を返した。

 せめて、最後にユリウスにお礼の手紙を書きたいと思ったのだ。明日まで、まだ時間はある。もう一度、刺繍入りのハンカチも用意しようと思った。


 彼は、最後の希望だった。

 だから、楽しい思い出を抱えたまま、お別れをするのだ。





「…………だろう?」


「えぇ~……だって、…………ねぇ?」


 そのとき、声が聞こえた。男女の声だ。

 小鳥のさえずりのように小さな声が妙に気になって、クロエは吸い寄せられるように、ゆらゆらと向かう。


「スコット様ぁ~、もう一回~」


「明日もまた会えるだろう? 我慢してくれ」


「えぇぇ~~~」


 それは、コートニーと……スコットだった。

 二人は身体を密着をさせて、見つめ合い、愛の言葉を囁き合い、口づけをしていた。幸福感を凝縮した、恋人たちの濃厚な時間だった。


 足がすくんだ。一気に血の気が引く。呼吸が静止する。


 見たくなかった。



「!…………」


 ふと、スコットと目が会った。

 ぶるりと恐怖が身体を駆け巡る。彼から向けられた瞳は、これまで見たことがないくらいの、深い冷たさを内包していた。


「どうしたの?」と、コートニーが尋ねる。


「いや……」


 スコットは新たな婚約者の顎を持って、言った。




「気のせいだ……。ただの…………ゴースト、だろう?」




 二人の舌が絡み合った。





 ――バチン。



 次の瞬間、クロエの中でなにかが弾けた。




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