30 つかの間の幸せでした
火事の後、クロエは急に発熱してしまって、しばらくベッドから起き上がれなかった。
高熱と打撲で、麻痺したように動けなかったが、幸運にもユリウスからもらったパンが残っていたので、飢えからは免れた。
数日たって、やっと起き上がれるようになると、彼女は早速、刺繍の作業へと取りかかった。
ユリウスに、真心を込めて。
今では彼女の中で、彼はとても大きな存在になりつつあった。彼のお陰で生き延びられている現実に、彼女は言葉にできないくらいに、とても感謝していたのだ。
「クロエ! ずっと来ないから心配していたんだ! なにかあったのか!?」
約一週間ぶりにクロエが王立図書館へ向かうと、ユリウスがすぐさま出迎えてくれた。それが、まるで飼い主の帰りを待つ大型犬のように見えて、なんだか微笑ましくて、彼女に少し笑顔が戻る。
久し振りに彼に会えて、ただ嬉しかった。
「心配かけてごめんなさい。ちょっと熱が出ちゃって……」
「熱? もう大丈夫なのか?」
「えぇ、もう平気よ。休んでいたぶん魔法の勉強を頑張らなくちゃ」
クロエが本棚に進もうとすると、
「っ……!」
火事のときに挟まれた左脚がずきりと傷んで、思わず顔をしかめた。
熱や打撲の痛みは引いたものの、左脚だけは未だに治らなかったのだ。
「どうした? 大丈夫?」と、ユリウスが彼女の顔を覗き込む。
「だ……大丈夫よ」
クロエはそのまま歩き出そうとするが、
「っいっ……!」
左脚の痛みは、更に彼女を突き刺した。朝より痛みが増している。
おそらく、まだ治りきっていないのに、少し無理をして図書館まで来たのが原因だろう。
「足を引きずっているじゃないか」と、にわかに彼の顔が険しくなった。
「ちょっと……転んじゃって……」と、彼女はばつの悪い様子で答える。
「…………」
ユリウスは少しのあいだ黙り込んでから、
「きゃっ!」
怪我をした彼女の身体をふわりと抱き抱えた。
「えっ……ユ、ユリウス……!?」
クロエは目を白黒させる。急激に顔が上気して、どくどくと痛いくらいに胸に早鐘が鳴った。
(は……恥ずかしい!)
彼女はこれまで一度も――婚約者からも、こんな風に抱き抱えられたことがなかったので、軽いパニックに陥っていた。
「これから治療院へ行こう」と、ユリウスか彼女の耳元で囁く。微かな風が耳をくすぐって、クロエの顔は更に熱くなった。
「でも……。そ、それに、こんな姿……恥ずかしいわ!」
彼女は、動揺する心を落ち着かせて、やっとの思いで声を上げた。
「君は足を怪我していて、歩くのも苦痛だろう? 大丈夫、すぐに歩けるようになるから」と、彼はにこりと笑うだけだ。
「うっ…………」
彼女はなにも言い返せずに、ただ頷いた。
彼の優しさが、嬉しくて。胸にほんのりと火が灯った。
(軽いな……。軽すぎる)
ユリウスは心の中で舌打ちをする。
彼は、側近のリチャードから、クロエとパリステラ侯爵家の調査結果を聞かされていた。
父親との関係、婚約者、継母と異母妹が来てからの彼女への仕打ち――全てを彼は知ってしまった。
同時に、胸が張り裂けるような激しい憤りを覚えた。身体中の血が煮えたぎりそうだった。
継母らの人の所業と思えないような、あまりに残忍な行いは、決して許されるものではなかった。
クロエを、この地獄の中から救い出したい。……彼女を、幸せにしたい。
彼はそう強く願っていた。
しかし、今の彼の立場はジョン・スミス男爵令息。
外遊を決めた際に、父である皇帝から厳しく言われていたのだ。
身分を知られてしまうことや、本来の身分を利用して権力を行使をすることが、絶対にないように――と。
彼が身分を笠に、表立ってパリステラ侯爵家に抗議しようものなら、国家と国家の問題に発展するかもしれない。かと言って、男爵令息が侯爵家に楯突くのも無謀だ。
少しも身じろぎできない状況に……そんな無力な自身に腹が立った。
そこで、彼は父帝に手紙を書いた。
一緒になりたい……愛する令嬢がいる、と。
それは、皇家から正式に婚約の申し込みをしたい――という趣旨の手紙だった。
彼は第三皇子とあって、そこまで厳格に婚約者を定めていなかった。
長兄の皇太子には既に嫡男が生まれていたし、第二皇子も国内の高位貴族の令嬢と婚姻を結んだばかりだ。
クロエは外国人ではあるが、侯爵家出身、しかも母親はアストラ家の血を引いている。帝国皇子にとって、申し分のない相手だ。
(もう少しだけ我慢してくれ……クロエ)
第三皇子は、愛おしそうに腕に抱いた侯爵令嬢を見る。
はじめは、少し気になるだけだった。
でも、毎日頑張っている彼女を見ているうちに、もっと知りたいと思って、勇気を出して話しかけて、言葉を交わす度にもっと彼女のことを好きになって。
本当は、すぐにでも彼女を母国へ連れて帰りたい衝動に駆られたが、皇族として生まれた彼は皇子としてきちんと筋を通したい、と……そう考えていた。
「よし、これで元通りだ!」
「ありがとう、ユリウス……! 私、なんてお礼をしたらいいか……」
ユリウスはクロエを抱き抱えたまま近くの治療院へ連れて行って、彼女の脚の怪我はすっかり治った。痛みも傷も完全に消えて、彼女はもう走れるくらいに健康だ。
「クロエが元気になってくれたら、それが一番嬉しいよ」と、彼は笑顔を見せる。
「で、でも……治療費も払ってもらったし……」
「いいって、いいって。友人の役に立てることは、俺にとって名誉なことなんだ」
「そんな……」
彼女は感激のあまり少し口を閉ざしてから、
「そうだわ! 私、あなたにプレゼントがあるの」
「プレゼント?」
クロエは鞄からおもむろに包みを取り出した。ユリウスのイニシャルを心に込めて刺したハンカチだ。
「いつもありがとう、ユリウス。あなたのおかげで……私は頑張れるわ」
「クロエ……」
ユリウスは目を見張る。鼻がつんとして、胸が詰まるようだった。
彼女自身のことで精一杯なはずなのに、自分のために時間を割いて刺繍をしてくれたのが、純粋に嬉しかった。
「ありがとう……! 俺、大事にするよ。死ぬまで、ずっと……。墓場にも持って行くから!」
急激に気持ちが昂揚して、思わずクロエにずいと近付いた。
二人の双眸が重なる。
しばらく、呼吸が止まった。
「なっ……」
ややあって、少し顔を上気させたクロエが、くすくすと笑い出した。
「墓場までって……おかしい冗談を言うのね」
「っつ……!」
ユリウスの白皙の顔がみるみる紅潮した。
やってしまった。嬉しさの余り、ついプロポーズのような言葉を走ってしまった。
急激に気まずさが彼を襲う。
「でも、そんなに喜んでくれて、私も嬉しいわ。頑張って作った甲斐があったわね」
「あぁ! 本当に嬉しい! ――そうだ、もう昼も過ぎてるし、これからどこか食事に行かないか? 令嬢に人気のレストランがあるんだ」
「えっ……」
彼の提案に、彼女は顔を曇らせる。
誘ってくれることは嬉しい。感謝しているし、自分も彼と一緒に行きたい。
(でも……)
彼女は顔を伏せた。着ているドレスはもうぼろぼろで、あまり人前に出たくなかった。
彼は、いつも清潔で貴族らしい格好をしている。そんな素敵な彼の隣に立つのが、申し訳なく思ったのだ。
「嫌かな……?」と、彼は困惑顔で尋ねる。
彼女は強く否定するようにぶんぶんと首を横に振って、
「いいえ。凄く、嬉しいの。でも、この格好では……あなたに恥をかかせるわ」
スカートを軽く摘んで、安く買い叩かれた古着みたいなドレスを、悲しそうに見せた。
彼ははっと目を見開く。
そうだった。女性にとって、身なりとは大事なことだった。
それを軽んじているような言動をするなんて、なんて自分は馬鹿なことを言ったのだろう。
今の状態は、自分が彼女に恥をかかせている。とんだ失態だ。
「ごめん……君のことを全然考えていなかった。そうだな……」彼は少しだけ思案顔をして「じゃあ、王都の屋台の食べ歩きはどうだ? 俺と一緒に食い尽くそう」
彼女は少し目を見張ってから、
「もう、食べ尽くすなんて」
おかしそうに、くすくすと笑う。彼の気遣いが胸に染みた。
「決まりだな。さぁ、行こう!」
ユリウスはクロエの手を取った。
勢い余って強く握ると、彼女もぎゅっと握り返してくれた。
二人は様々な屋台の料理を食べていった。
串焼き、フィッシュ&チップス、ミートパイ、ドーナツ……ユリウスが宣言した通り、多くのものを食べていった。「もう食べられないわ」と、彼女が降参するほどに。
彼は、最初は彼女に好きなだけ食べさせてから、余った分を全て平らげた。
二人のあいだには笑いが絶えなくて、クロエは久し振りの楽しいひとときを過ごしたのだった。
(いつまでも、こんな時間が続けばいいのに……)
屋敷に戻ると、また辛い時間が押し寄せて来る。それでも耐えられるのは、ユリウスの存在が大きかった。
それは無自覚に、どんどん膨れ上がっていっていたのだ。
◆◆◆
「なに、あれ……」
コートニーは無感情な声をぽつりと上げた。
奇しくもその日の同時刻、コートニーとスコットも王都に遊びに来ていた。令嬢に人気のレストランに婚約者同士で来たのである。
その帰り道、少しショッピングでもしようかと、二人は大通りを歩いているところだった。
クロエがいる。
しかも、男と一緒だった。そして、とても楽しそうに……。
「………………」
スコットは黙り込んで、氷のような冷たい視線を元・婚約者に向けた。
あぁ、本当に彼女は男遊びをしていたのだな……と実感すると、彼の中には嫌悪感がみるみる満ちていった。
(汚らわしい)
自分はあんな女に騙されていたのか。不貞の……下男の娘のくせに、正統なる公爵令息である自分のことを。
彼の心の中は、もう彼女に対する愛情なんて、少しも残っていなかった。
「お異母姉様も、困りものだわ」
コートニーは、わざとらしく肩をすくめる。そして、ちらりと婚約者の様子を見た。彼の心にはもう未練なんて皆無なのだと確認すると、ほくそ笑んだ。
「行こう。あれを目に入れたくない」
スコットは冷淡に答える。そして、婚約者の腰を抱いて、踵を返した。
(お異母姉様の隣の男……凄くいい男じゃない!)
ユリウスは背丈が高くて、ほぅと息を漏らすような美しさを持っていて、帝国の令嬢たちから人気が高かった。
コートニーもまた、彼に見惚れる。彼の前では、隣の婚約者も霞んで見えた。
どこの令息だろうか。身なりが良くて、姿勢も綺麗で。きっと貴族だ。
異母姉は、本当に男をたらしこんでいたのだろうか。
(許せない……)
クロエが自分よりも良い思いをするなんて、絶対に許せなかった。
あんなに笑顔で……あの女が幸せになるなんて、許せない。
(今度こそ、潰してやる)
にわかに、コートニーの頭の中に、とある閃きが起こる。
それは、異母姉を完膚なきままに叩き潰す、素晴らしいアイデアだった。
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