29 思い出は燃えてなくなりました

※不快なシーンあり※








 クロエが屋敷に帰ると、今日も代わり映えのない、辛い現実が待ち受けていた。


 図書館でのユリウスとの楽しい時間の落差が大きくて、彼女の気持ちはみるみる暗く沈んでいく。

 屋敷の者たちとすれ違っても、挨拶どころか会釈すらなくて、皆、真正面だけを向いて歩いていた。相も変わらず、クロエのことは誰一人として見ない。


 ここに戻ると、自分は本当にこの世に存在しているのかと、途端に不安が襲って来る。

 もしかしたら昼間の出来事は全てが夢で、ユリウスは強い願望が見せた幻なのではないだろうか。

 ……そんな風に、恐ろしい考えが次から次へと浮かんでは、消えた。


(駄目ね、私ったら。もうずっとネガティブなことばかり考えてる……)


 クロエは、心の中のもやもやを振り払おうと、両頬を叩いた。

 継母と異母妹が来てからというもの、悪いことばかりが起こって、彼女の思考は深い暗闇に引きずり込まれるかのように、下へ沈んで行っている。


 ユリウスとの時間は、宝物が詰まったような幸福そのものだったが、いつか泡みたいに儚く消えてしまうのではないかと、案じている気持ちもあった。


 でも、悪いことばかり考えても仕方がない。

 ユリウスはたしかに存在していて、自分の大切な友人なのだ。


(彼になにかお礼をしないと……)


 あの日以来、クロエは毎日図書館へ出かけては、ユリウスと昼食を摂っていた。

 彼はいつもお腹いっぱいに食べさせてくれた。それは空腹はもちろん、彼女の枯れ果てた心まで満たしてくれた。

 彼は文字通り命の恩人で、いくら感謝の言葉を重ねても、全然足りないくらいだった。


(……そうだわ! お母様の刺繍箱があったはずだわ)


 クロエは早速、離れの物置へと向かった。

 それは、父親が死んだ母親の荷物を問答無用で詰め込んだ、古い倉庫だ。


 あのときは酷く悲しんだが、今となっては、良かったのかもしれない。

 そこには継母と異母妹の、魔の手が伸びていないからだ。

 父親は前妻のことは二度と口にしたくないらしく、新しい妻と娘の前で、決して言及しなかったのだ。



 物置は木材でできた安普請で、昔は庭師の休憩所として使用していたらしい。建ってからかなり時間がたった古めかしい建物で、ところどころ朽ちていた。

 案の定、警備もいないし鍵も掛かっていなくて、彼女は易々と中へ潜り込むことができた。


 一歩足を踏み入れると、多くの懐かしい物が目に飛び込んできて、息が止まる。


(お母様……)


 母が使っていた鏡台、母が着ていたドレス、母の読んでいた本……ここには思い出がたくさん詰まっていて、じわりと胸が熱くなった。


「……と、いけない! 刺繍箱を探さなきゃ!」


 クロエは、ずっと思い出に浸っていたい気持ちを振り払って、目当てのものを探し始めた。


 ユリウスにはハンカチをプレゼントするつもりだ。名前入りのハンカチ。これなら使い捨てられるから、いくらあっても大丈夫なはずだ。


「あったわ!」


 刺繍箱は、什器の間の奥まった場所にしまわれていた。

 彼女は膝を付いて、思い切り手を差し出す。箱は綺麗に隙間に挟まっていて、彼女はうんうんと身体を伸ばしながら、箱を掴もうともがいた。


(あと少し……もうちょっと……よしっ)


 クロエが箱に手を触れた、そのときだった。

 にわかに背後の扉が勢いよく開けられたと思ったら、ブン――と、なにかが投げ付けられるような鈍い音がした。


「えっ……?」


 驚いたクロエが顔を上げると、ぼうぼうと紅い炎を揺らす松明が、母親のドレスの上に転がっていたのだ。


「お母様のっ!!」


 炎はみるみる広がっていく。母のドレスはどんどん紅に呑み込まれていって、そして今度は黒くなった。


(火の勢いが激しい……! これは、魔法……?)


 彼女はしばし呆然としていたが、はっと我に返る。

 今は、考えている暇はない。早く火を消さなければ。


「誰か! 火事よ、来て! 誰か――きゃあぁぁっ!!」


 そのとき、炎に炙られた母の持ち物が崩れて、彼女を襲った。


「うっ……!」


 彼女は雪崩に巻き込まれて、その場に下敷きになってしまった。

 慌てて起き上がろうとしたが、左脚が挟まって、動けない。


(動いて! 動いて!)


 身体をよじらせて、必死にもがく。

 だが、彼女の脚は、まるで獣からがしりと強く噛まれているかのように、微動だにしなかった。


 その間も火は燃え広がって、煙が充満する。呼吸が苦しくなった。じわじわと周囲の熱が上がって、焦燥感で背中が凍り付く。


(お願い……! 誰か……!)


 バチバチとなにかが弾けるような大きな音が聞こえだした。がらりと崩れるような音。脚が痛む。

 だんだんと意識が遠のいていくような気がした。


(お母様…………)



「火事だ!!」


 そのときだった。にわかに男の叫び声がした。

 薄れゆく意識で、ぼんやりと声のほうに目を向けると、庭師たちが血相を変えてこちらを見ていた。


「早く消火をっ! 水っ!!」


「こっちだ!」


「バケツは!?」


 一瞬で、あたりが慌ただしく動き始める。彼らはすぐに本邸に連絡をして、屋敷中の従者たちが集まり、消火活動にあたった。

 彼らの見事な連携で、火はやがて消え去った。


 これで助かった……と、クロエはほっと胸を撫で下ろす。

 少なくとも焼け死ぬことは免れたのだ。あとは、挟まった脚を抜き出すだけだ。


「お願い……」煙で喉を痛めた彼女が掠れた声を上げた。「什器に脚が挟まって動けないの……。助けてくれない?」


「…………」


「…………」


「…………」


 たしかに、聞こえたはずだった。

 しかし、従者たちは声の主に目さえ向けない。


「助けて! お願い!」


 クロエは削られた体力を振り絞って、今度こそと大声を上げるが、彼らには届かなかった。


「私は旦那様に報告して参りますね」


 一拍して、執事の一人が口火を切る。


 それを皮切りに、


「わしは被害の確認を」


「わたしは奥様とお嬢様のもとへ」


「さぁ、夕食の仕込みの続きをしなければ」


 屋敷の使用人たちは、それぞれの仕事へ散り散りに向かっていった。


「待って! お願いします! 助けてくださいっ!!」


 クロエの腹の底からの懇願は届かなかった。

 彼女一人が残されて、倉庫はしんと静まり返った。


 孤独……。

 孤独が彼女を八つ裂きにする……。


 ユリウスと出会ってから、浮かれていた。目の前のむごい現実から逃げられた気がした。


 でも……自分は、人から認識されない「ゴースト」だったのだ。誰も自分のことなんて、見えない。

 ここでは、自分の存在なんて、端っから無かったのだ。


(私は………………)


 涙が止まらなかった。





 それから、どれくらい時間がたっただろうか。

 突如、ぎしぎしと音が鳴ったかと思ったら、にわかにそれは大きくなって、彼女の背後の荷物が崩れた。


「きゃああぁっ!」


 彼女の身体に黒焦げた母の思い出が襲いかかる。全身を強く叩き付けられた。


「っ……」


 不幸中の幸いか、肉体を殴打したものの、あんなに身動きできなかった左脚はすっぽりと抜けて、彼女の身体は自由になった。


 おもむろに、立ち上がる。


「っいっ……!」


 ずきりと左脚に鋭い痛みが走った。全身がぎゅっと絞られるみたいに痛かった。

 振り返ると、母の思い出はほとんど焼け焦げて、もはや原型を留めていなかった。


 嗚咽した。

 膝を崩して、泣いて泣いて、涙が枯れそうになるまで泣いた。


 でも、現実は変わらない。

 もはや諦念が心を支配して、彼女は無感情に、再び立ち上がる。



「……!」


 ふと、彼女の目に刺繍箱が飛び込んで来た。夢中でそれを腕に抱える。ずっかり煤けてしまった箱だったが、奇跡的にも中身は無事だった。


(良かった……これでユリウスに刺繍入のハンカチを贈れるわ……)


 クロエは、母の思い出に名残惜しさを覚えながらも、いつまでもここに居ても仕方がないと、物置から出て行った。


 身体中がきしんで、酷く痛かった。


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