28 甘いスコーンと優しい彼でした
「美味しい……」
ユリウスから貰ったスコーンは、ほんのり甘くて、練り込んであるチョコチップがぷちぷちして。優しい味が心に染み込んだ。
いつぶりのまともな食事だろうか。
コートニーの「餌」から始まって、ゴミ箱の中の残飯、雑草……。
もうずっと「食事」と呼べるものを口にしていなかったので、喜びが溢れて弾け飛びそうだった。
久し振りの美味しい食べ物を全身で味わうように、ゆっくり噛んで静かに嚥下する。口を通してじわじわと幸せが入り込んで来て、クロエの空腹を満たした。
「っうっっ……」
自然と涙が出た。嬉し涙だ。
これから一生、食事なんてありつけないと絶望していたので、歓喜もひとしおだった。
「ど、どうしたっ!?」
隣に座っているユリウスが再び慌てふためく。
彼は、今度もポケットからハンカチを出して、拭ってあげた。
「ごめんなさい。こんなに美味しいスコーンをいただいたのは、初めてだったから」クロエは言い繕う。「本当にありがとう」
「ここの店のスコーンは格別だからな。泣くほど旨いのは分かるよ」と、彼は苦笑いをする。
それから、しばらく二人して無言でスコーンを食べた。
「ごちそうさま。とっても美味しかったわ。泣いちゃうくらいに」
すっかり平らげたあと、クロエは泣いたことを心配かけまいと、努めて明るく礼を言った。
「どういたしまして。――ところでさ、その……」と、ユリウスは遠慮がちに彼女を見る。
「どうしたの?」
「いや……余計なお世話かもしれないが」彼は一瞬だけ黙ってから意を決したように再び口を開けた。「令嬢に失礼かもしれないが、君は……少し痩せ過ぎているように見える。日頃はちゃんと食べているのか?」
クロエは骨と皮だけみたいに痩せ細って、華奢を通り越した薄い身体は、ドレスの上でもはっきりと分かるくらいだった。
「それは……」
クロエは口ごもる。なんと答えればいいか分からなかった。
ユリウスは、自分のことを本気で心配してくれているように見える。
でも、本当のことを言ったら、パリステラ家の名誉に関わると継母から折檻されるかもしれないし……なにより自身がゴミ箱を漁っている事実を知られるのが、恥ずかしかった。
彼が知ったら忽ち軽蔑されるかもしれない。
せっかく出来た友人とすぐお別れなんて、嫌だ。
「それは?」と、彼が不安げな表情で彼女を覗き込んだ。
「……じ、実は、魔道書を読み耽っていると、時間が早くたっちゃって……食事も忘れることが多いの。だから……起床して気がついたらもう夜で……。そのまま就寝する日ばかりなのよ!」と、彼女は捲し立てるように早口で言った。
「…………」
ユリウスは眉間に皺を寄せて黙り込む。彼の不穏な沈黙が、彼女の胸を締め付けた。
こんな、あからさまな嘘が彼に通じるだろうか。親切にしてくれる相手に嘘をつくなんて不誠実ではないだろうか。
ばくばくと心臓が強く打った。
「そうか」
意外にも彼は納得したように頷いた。彼女はほっと胸を撫で下ろす。
「たしかに君は、図書館でも随分集中をして読んでいるようだ。本当はもっと早く声をかけたかったけど、あまりに真剣に読書をしているから、ずっと躊躇していたんだ」
「そ、そう……」
撫で下ろした胸がにわかに痛くなった。嘘をつくという行為はどうも慣れないものだ。
「きっと、家でも寝食を忘れて、ずっと魔導書で勉強しているんだろう?」
「ま、まぁ、そうね」
居たたまれなくなって思わず目を逸らす。罪悪感が押し寄せてきた。
「分かる、分かるよ。俺もつい夢中になって食事を抜いてしまうことがままある」と、彼はうんうんと頷く。
「あるわよね」
彼女も同意するように相槌を打つ。
このまま話が終わると安堵していたら、卒然と彼の顔が険しくなった。
「だが、食事は摂らないと駄目だ」
「うっ……」
彼女の顔が強張る。こっちは食事を摂りたくても、摂れないのだ。
だが、どう誤魔化せば――……。
「そこで、だ」
突然、彼がぽんと手を叩いた。彼女は驚いて目を丸くする。
「君が食事を摂り忘れることのないように、明日から君の分も持って来るよ。これからは俺と一緒に食べよう」
「ふぇえぇっ!?」
クロエは目を見張って、素っ頓狂な声を上げる。
信じられなかった。驚きと嬉しさで胸が弾けそうになった。
「じゃ、決まりだな。早速、明日から――」
「い、いいのっ!?」と、彼女は食い付くように彼を見た。
「いいに決まっているだろう? 俺も一人で食べるより話し相手がいたほうが楽しいし。ま、人助けと思って付き合ってくれ」と、彼はにこりと微笑んだ。
「えぇ……ありがとう!」
嬉しくて嬉しくて、また涙が出そうだった。
いや、本当に出たかもしれない。明日も明後日も明々後日も……食事が摂れるなんて、夢のようだ。
「そうだ、好きな食べ物はあるか? あと苦手な食べ物も」
「苦手な食べ物は特にないわ。好きな食べ物は……美味しいもの? 全部、好きよ」と、クロエは瞳を輝かせる。
今の彼女にとっては、どんな食べ物も美味しいものだ。誰かが誰かに食べてもらうために作ったものは、全部。それは、とっても尊いものなのだ。
「なんだよ、全部って。食いしん坊だなぁ」彼はくつくつと笑う。「じゃあ、美味しいものを毎日君に届けよう。クロエ」
「ありがとう、ユリウス」
それから毎日のように、クロエとユリウスは丘の上の鐘塔の下で二人で食事を摂った。
それは彼女にとって、ささやかな幸せで、かけがえのない大切な時間だった。
◆◆◆
「どういうことですか、殿下」
ユリウスがクロエを見送ると、背後から一人の青年が渋面を作って側に来た。
彼の名前はリチャード。ユリウスの側近兼護衛だった。
「どういうことって、なにがだよ」とユリウス。その声音はクロエに対してとは打って変わって、厳しさを帯びていた。
「なぜ、ミドルネームを名乗ったのです? 男爵令息という設定でしたよね」
「あー……忘れてた」
「殿下」
「別に構わないだろう?」
「いけません。良いですか、遊学は秘密裏にという陛下との約束です」
「分かってるよ」と、彼――ローレンス・ユリウス・キンバリーはむっと口を尖らせる。
その子供っぽい姿に、リチャードはうんざりとした様子で肩をすくめた。
ユリウスは、キンバリー帝国の第三皇子だった。
帝位も継がず比較的自由な立場の彼は、各国を遊学している最中だった。
彼はジョン・スミス男爵令息と名乗って、辺境から王都にやって来た田舎者という「設定」で、異国の生活を満喫していたのだ。
彼が重視しているのは図書館だ。そこには、各国の叡智が詰まっている。
だから外国へ赴いた際は、基本的には図書館で読書に耽ってた。
「彼女……クロエには、嘘をつきたくなかったんだよ」と、彼は呟いた。
ユリウスはずっとクロエのことが気になっていた。
痩せぎすの身体とぱさぱさの髪、生地は上等なものを使用しているようだが、擦り切れて薄汚れたドレス。
一見、ぎょっとするような見目だが、彼女の立ち姿は凛としていて、仕草も洗練としていた。
そして毎日一生懸命に勉学に打ち込む様子は、彼も大いに励まされた。彼女を見ていると、不思議と自身も意欲が湧いてくるのだ。
いつしか彼は、彼女が現れるのを毎日楽しみに待っていて、その姿を自然と目で追っていたのだ。
もっと彼女と近付きたいと思っていたが、突然話しかけて不審に思われないかと、躊躇もしていた。
彼は、その身位から令嬢たちに囲まれることはあっても、自ら令嬢に言い寄る度胸は持ち合わせていなかった。
そんな悶々と日々を過ぎ去っていたあるとき、クロエがある本を読んでいるのが目に付いた。それは、彼が子供の頃によく乳母にねだって、何度も読んでもらった童話だった。
彼は嬉しくなった。自分が好きな物語を彼女も読んでいる。なんだか尊い思い出を共有しているみたいで、胸が一杯になったのだ。
その高揚した気持ちに包まれて、勢い余って彼女に話しかけてしまった。
でも、後悔はしていない。
だって、こうやって友人になれたのだから。
「悪いが、彼女について調べてくれないか。気になることがあるんだ」
「たしかに、貴族令嬢の雰囲気を醸し出しているのに、あの身なりは不自然ですね」
「それもあるが」とユリウス。「彼女の母親の右目は俺と同じらしい」
リチャードは目を剥いた。
「まさか……!」
ユリウスは深く頷く。
「彼女の母親はアストラ家の末裔なのだろう。かの一族は大陸中に散り散りになったと言われているから、然もありなんだな」
「承知しました、殿下」
「彼女は家門を名乗りかけて途中で止めた。たしか……『パ』と言いかけていたな。思い当たるか?」
「パ……でしたら、パリステラ侯爵家でしょうか。代々、高名な魔導士を排出している家系ですね」
「そうか」
ユリウスは、クロエがよく魔導書を読んでいる様子を思い出した。
アストラの一族の末裔は、自分のように特殊な目を持つ。
彼女の母親は間違いないようだが、彼女自身はその瞳を持たない。ということは、まだ魔法が覚醒していないのだろう。
そしてリチャードの言う通り、パリステラ侯爵家が魔法の名門となると……。
(そういうことか……)
彼は合点して、軽く舌打ちをする。彼女のあまりに貧相な姿は、魔法が使えないことと関わっているのだろう。
「そのパリステラ侯爵家を調べてくれ。特に彼女の母親と……現在の彼女の待遇を」
「御意」
ユリウスは、クロエが嘘をついていることを見抜いていた。本当は、食事をまともに与えられていないのだろう。
だから自分と一緒に昼食と摂ることを提案して、答えも聞かないうちに半ば強制的に決めてしまった。
そうでもしないと、彼女がこのまま消えていなくなりそうだったから。
彼女のことを、ただ助けたいと思った。
それは自覚のない淡い恋心だった。
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