26 不思議な出会いでした

 空腹や精神的衰弱によって、ぼんやりとして頭が上手く機能しない中で、クロエはかつての継母の発言を思い出す。


 ――干渉は厳禁よ。好きなことをやらせなさい。夜遊びも、男遊びも、どうぞご自由に。


 それは天啓のようなものだった。


 そうだ、自分はもう自由なのだ。好きに過ごしていいし、どこへ行ってもいい。

 もう以前みたいに継母に移動を止められたりされないはず。

 そう考えると、気持ちが少し軽くなった気がした。


 彼女は今、魔法の特訓に行き詰まっていた。屋敷の図書室にある魔導書が読めないからだ。


(そうだわ……王立図書館へ行きましょう)


 あそこは国中の書物が揃えられている。きっと、侯爵家よりも多くの魔導書があるだろう。


 早速、屋敷を出発する。念のため裏口からこっそりと脱出した。

 途中で彼女と鉢合わせした者もいたが、案の定特に咎め立てられたりされなかった。彼らの世界には彼女はもういないのだ。


 馬車は使えなかったので、徒歩で向かった。幸いにも、パリステラ侯爵家から王立図書館はそう遠くなく、徒歩でも十分行ける距離だった。

 さすがに小一時間ほどは歩いて、弱った彼女の足腰には厳しかった。

 それでも、魔法を使えるようになりたいという意思で、なんとか辿り着いたのだ。



(うわぁ……! 広い! お屋敷の図書室とは比べ物にならないくらいの本の山だわ!)


 王立図書館に到着すると、早速魔導書の棚を探して、貪るように読み耽った。久し振りの文字の羅列に、心が踊った。


 彼女のぞっとするくらいの痩せこけた貧相な姿に、司書たちははじめは困惑した。

 だが、王立図書館は学びたい者は拒まずを標榜しており、特に追い出すような真似はしなかった。もっとも、おぞましい者を見ないようにはしていたが。



 こうして、クロエの新しい習慣がはじまったのだった。





◆◆◆





 つくねんと無味乾燥に屋敷にいても仕方がないので、クロエは毎日のように図書館へと通って魔導書を読んでいた。

 時には、息抜きにと流行りの恋愛説を読んだり、背伸びをして政治や経済の本など少し難しいも目を通して、想像以上に充実した時間を過ごしていた。


 ここでも彼女と会話を試みる者はいない。痩せぎすの憐れな姿に眉をひそめる者もいる。

 しかし、少なくとも本とは対話ができた。

 彼女はまるで友達とお喋りするかのように、夢中で読み耽っていた。



 毎日、図書館に通っていると、自然と他の常連の顔ぶれも覚えてくる。やはり学者と思しき人々が多かったが、騎士団の制服の者、聖職者、令嬢……様々な人物たちが出入りしていた。


 そんな多くの人々の中で、不思議と目を惹き付けられる人物がいた。


 彼は――クロエと同じか少し年上くらいの容貌で、流れ星みたいな銀色の髪と、夜空を薄めたようなタンザナイト色の瞳が印象的な、不思議な魅力を醸し出している少年だった。


 クロエが図書館へ赴くと、彼はいつも既に閲覧室に座っていて、とても真剣に書物を読んでいた。彼のそんな真面目な姿が、彼女の励みにもなっていた。


(今日も頑張っているわね。私も負けないように魔法の勉強をしっかりやらなくちゃ)


 いつしか彼は、彼女の意欲を高める起爆剤のような存在になっていた。

 一生懸命に学問の取り組んでいる彼を眺めていると、悲しみで押し潰れそうになっている心も少しは膨らんで、やる気に満ち満ちてくるのだ。







 それは、突然の出来事だった。

 彼女がいつも見ていた「彼」から、話しかけられたのだ。


「面白い本を読んでいるな」彼はクロエに向かってにこりと微笑む。「俺も好きなんだ、その物語」


「っ……!?」


 出し抜けにクロエに向かって放たれた彼の言葉に、目を見張った。

 言葉が、出ない。


(私も……このお話が大好きなの!)


 彼女は、もうずっと声を出していなかったので、すぐには答えられなかった。ぱくぱくと魚みたいに口だけを間抜けに動かす。


(どうしましょう、言葉が出ないわ……)


 ただでさえ痩せ細って見た目が良くないのに、こんな間抜けな姿では気味悪く映るだろうか……と、不安が過ってますます声を出しにくくなって、焦った。


 すると彼は少し戸惑った顔をして、


「ごめん、突然声をかけたから驚いたよな。いつも君の顔を見かけていたから、すっかり友人になった気分だった」


 クロエは更に大きく目を見開く。

 一瞬、呼吸が止まった。

 ずっと忘れていた、嬉しいという感情が湧き上がってきて、にわかに鼓動が早くなる。


「わっ……」少ししてやっと声が出た。「わ、私も……あなたと同じことを考えていたの。いつも勉強を頑張っている姿を見ていて、自分も負けないように頑張ろう、って……」


 彼は少し目を見張って、それから相好を崩した。


「それは嬉しいな。実を言うと、俺も集中力が切れそうになったときに、密かに君を見ていたんだ。あの子はまだ頑張っているから、自分も頑張ってもう少し先まで読み進めよう、ってね」


「っつ……!」


 心臓が爆ぜそうだった。


 彼は……自分のことを、見てくれていたのだ。


 屋敷では誰からも相手にされていなくて、ゴーストだって忌み嫌われて。

 あまりにも人と関わらな過ぎて、本当に自分の存在は証明できるのだろうかと苦悶していて。開けない夜みたいな延々と続く孤独が恐ろしくて。


(でも、私は……見られていたのね……彼に……!)


 感激のあまり、思わず一筋の涙が頬を伝った。


「お、おい! どうした? 大丈夫か?」と、彼は矢庭に慌てふためく。自分のせいで女の子を泣かせてしまったと、ショックを受けている様子だった。


「いいえ」クロエは首を横に振って「ちょっと埃が目に入ったみたい。あなたのせいじゃないわ。びっくりさせてごめんなさい」


「な、ならいいんだが……」と、彼はポケットからハンカチを取り出す。そして、おもむろに彼女の濡れた頬を拭った。


「!?」


 クロエはどきりと心臓が跳ねて、硬直する。

 こんなに人から優しくされたのはいつぶりだろうか。嬉しさと恥ずかしさが綯い交ぜになって、顔を上気させた。



 彼の彫刻のように整った顔がとても近くて、青紫の瞳に吸い込まれそうに――、


(あら……?)


 彼女はふと違和感を覚えた。じっと彼の双眸を見つめる。


「ん? どうした?」


 涙を拭きおわって、彼は彼女から少し離れて首を傾げた。


「その瞳……」とクロエが呟くように言う。


 彼は少し眉を上げて、


「あぁ、よく気付いたな。俺は生まれたときから左側の目が少し違うんだ」と、肩をすくめた。


 彼の瞳は美しいタンザナイトの色をしているが、近くで見ると左目のほうは若干色素が薄くて、右目に比べてきらりと光彩を帯びているように見えた。それは、夜空に星を散りばめたみたいに綺麗だった。


 そして……この瞳は見たことがある。


 クロエが黙り込んでいると、彼は苦笑いをした。


「ちょっと変だろう? ま、これでも気に入ってはいるんだが――」


「違うの」


 クロエのはっきりとした声が遮る。そして、じっと彼の双眸を強く見つめた。


「お母様も、あなたと同じ瞳をしていたわ」



 彼の瞳は、彼女の母親と同じ輝きを持っていたのだ。




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