24 誰も見てくれません

※虐待による不快なシーンあり※

※不衛生な表現あり※








 翌日から、クロエの世話係をしていたメイドは来なくなった。


 これまでは、魔法が使えない不貞の子だと蔑まれても、彼女の身の回りの世話をする者は一応は付いていた。

 しかし、それは継母の息の掛かった者で、とても高位貴族の令嬢に対する敬意なんて持ち合わせていなかった。


 洗顔用にはぞっとするくらいの冷たい水を渡されて、掃除もかなり雑だった。

 食事は一日一度のコートニーからの「餌」だけだし、もちろん湯浴みも冷水、身繕いもなおざり。寝具やドレスの手入れも、怠っている日のほうが多かった。


 それでも体面上は「侯爵令嬢の身の回りのお世話」を行っていて、クロエの面目はなんとか保たれていた。

 だから、彼女は一度たりとも自分自身で身の回りの仕事をやったことなんてない。

 コートニーへのメイドの真似事で、初めてお茶を淹れたり掃除をしたりしたくらいだ。それに至るまでの道具は、全てメイドたちが用意してくれていたのだ。



 それが昨日の出来事によって、突然の放置だ。


 朝、クロエが目が覚めて、洗顔がしたいとベルを鳴らしても誰もやって来ない。廊下に出て近くの者に声をかけても返事がかえって来ないどころか、クロエのことを一顧だにもしなかった。


 仕方なく彼女は寝衣にカーディガンを羽織った姿で、メイドたちのいる部屋へ向かう。

 部屋の扉をノックして入室の許可を貰い、足を踏み入れると、それまでかしましくお喋りに興じていたメイドたちが、急にしんと静まり返った。皆、一様に顔が強張って、誰もがクロエのほうを見ようとはしなかった。


「ねぇ、洗顔用のお湯を頂戴したいのだけれど……」と、彼女は重苦しい空気にやや呑み込まれながら控えめに尋ねた。


 しかし……返事はない。

 不審に思ったクロエがもう一度声をかけても、彼女たちは無言を貫いた。そして、誰からか再びお喋りに興じはじめる。


「…………」


 クロエはしばし呆然と立ち尽くしたあと、井戸へ向かった。その場で冷水を汲んで顔を洗う。本当は温かい湯が欲しかったのだが、貴族令嬢の彼女には火のくべ方が分からなかった。


 「教えて欲しい」と懇願しても、誰一人振り向いてくれない。無礼を承知で袖を掴んで呼びかけても、目も合わせてくれなかった。



 その後も、屋敷の住人たちはクロエのことは完全に存在しない者として扱っているようで、彼女は一人で自分の身の回りの世話をしなければならなかった。


 洗顔も湯浴みも井戸の染みるような冷たい水、掃除も倉庫へ道具を取りに行って、やり方も分からずに、メイドたちの姿を見様見真似で取り掛かる。

 洗濯も自分の手を冷水に突っ込んで、じゃぶじゃぶと洗った。


 もちろんドレスや下着は新しいものを購入するのも許されず、古びたものを繰り返し着用して、毛玉や汚れの目立つみすぼらしい姿にどんどん変化していった。


 身体の手入れも行き届かず、荒れてささくれ立った指先と、自らの手で不器用に三編みにした艶のない髪がかさかさと揺れていた。


(私は……多くの人に支えられて生きてきたのね……)


 クロエは、改めて自身の生まれてきた環境と、屋敷の者たちに感謝の念を抱いた。これまで当然だと思っていたことも、側で多くの人々が忖度して動いてくれたお陰なのだと。


 この時は彼女はまだ、誰からも存在を認識されず、誰からも相手にされないという真の恐ろしさが分かっていなかったのだ。





 一番の問題は食事だった。


 これまでは一日一食、晩にコートニーが持ってくる「餌」でなんとか生き延びていた。

 だが、今はそれも、もうない。自身で調達をしなければならないのだ。


 最初は厨房へ行って、余り物でいいのでなにか食べる物をくれないかと交渉した。

 しかし……返事はない。

 何度か声を掛けても料理人は黙々と調理を続けている。ぐつぐつと煮えたぎるスープの香りが鼻腔をくすぐって、にわかに空腹が襲った。

 だが、さすがに勝手に食材を持ち出すのは良心が咎めるので、クロエは諦めて庭に出た。


 侯爵家の庭は広い。しっかりと管理された薔薇園や植栽、そして自然に近い状態を保たれた場所もあった。

 彼女はそこから雑草を取って、当面の食料にしようと意気込んで向かったのだが――、


「…………」


 生い茂る草木の前で茫然自失と立ち尽くす。どの植物が食べられるのか、それ以前にどの植物は取ったらいけなくれ、どの種類が雑草なのか……彼女には皆目見当がつかなかった。

 手当り次第に採取して庭師に迷惑をかけることなんて、彼女の性格ではできなかった。


 仕方なく雑草も諦め――クロエは意を決して、厨房の捨てる予定の屑野菜を……ひっそりと、いただくことにしたのだ。






 冷たい夜が来た。

 クロエはひっそりと屋敷を歩く。


 ゴミが入れられたバケツは、厨房の裏の扉から出た場所にあった。金属製の大きめのバケツが数個並べてあって、どれも蓋の上に重石が置かれていた。


 クロエはその重石の一つに手を伸ばすが、躊躇してぴたりと手を止める。

 罪悪感と羞恥心があった。これから自分がすることは、いくらゴミとは言え無断で盗む行為になる。


 それに……浮浪者のようにゴミを漁るなんて恥ずかしかった。


 誰かに見られたらどうしよう。お継母様の耳に入ったら「侯爵令嬢として情けない」とまた強く打たれるだろうか。

 異母妹が知ったら……スコットに喋るだろうか。



 暗澹とした考えばかりが頭を過る。

 しかし、彼女の空腹は限界に近かった。このままでは、倒れてしまいそうなくらいに、辛かったのだ。


「っ……!」


 クロエは、ままよと勢いよく重石を持ち上げた。

 蓋を開けると固く結ばれた麻袋があり、むわりと悪臭が漂っていた。彼女はその固く閉じた口をおそるおそる開けた。


 そして中身を……口にした。息を止めて、ほとんど咀嚼しないで、喉に下す。

 じわりと涙が出た。



 一生忘れられない、最悪な夜だった。


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