19 二人は抱き合っていました

「そ、そうですね……」


 少しの沈黙のあと、コートニーが小さな口を開く。ついさっきまで義兄の瞳を捉えていた視線は、今では斜め下を泳いで、にわかに落ち着かない様子になった。


 スコットは息を呑む。鼓動が強く打った。

 まさか、自分の最悪の予測は的中してしまうのだろうか。やはり、クロエは――、


「お異母姉様は……その……良く、してくださいますわ……?」と、彼女は少しだけ首を傾けながらにこりと微笑んだ。


 しかし、彼は一瞬の姿を見逃さない。

 義妹は小さく肩を振るわせて、左手首に巻いた包帯をぎゅっと掴んでいた。なにかに酷く怯えるような仕草で。まるで抗えない大きな力に、ひたすら耐えるように。

 それは、胸を掻きむしられるような、とても痛々しい姿だった。


 ――お父様ったら、酷いの。


 卒然と、クロエの言葉がスコットの頭に響いた。

 彼女は新しい母親と妹のことを拒絶していた。それは仕方のないことだと思った。誰だって実の母親の死を機に、父親が愛人とその子供を正式な家族として迎え入れたら、胸中は穏やかではないはずだ。

 彼自身も、仮にクロエの立場になったら、すんなりと受け入れられる自信はない。


 だが、浮かび上がったどす黒い心を、暴力に変換して相手にぶつけるなんて、言語道断だ。貴族……いや、人として許されることではない。


 スコットの胸の奥底が、怒りでたぎっていく。


 彼は燃えるような双眸で義妹を見やって、


「その左手首の怪我は……クロエなんだね」


 詰問するように強く言った。


 コートニーは、なにも答えずに困惑気味に俯く。

 姉より小さな肩はとても頼りなくて、少し触れるだけで壊れてしまいそうだった。


「そうか」と、スコットは静かに一言だけ返す。

 短い言葉の中に、彼のやるせない気持ちが乗っていた。


 張り詰めた空気は続いていた。



(あとひと押しだわ……。お坊ちゃまって扱いやすいのね)


 コートニーは、彼の中に仄かに生まれた隙を、見逃さない。今やスコットは彼女の獲物で、狩りは意のままだった。

 彼女の丸い瞳がぎらりと怪しく光る。



「ねぇ、スコット様?」


 コートニーはここぞとばかりに、ずいと前へ出てスコットに密着した。彼の左腕に柔らかい感触が引っ付いて、ふわりと微かなバニラの良い香りが鼻腔をくすぐった。


 彼が無礼を咎める前に、彼女が彼に問う。


「あのね、今日のドレス……分かる?」


「…………」


 スコットはまじまじとコートニーを見る。

 彼女の着ているドレスは見覚えのある色だった。彼の瞳と同じライトブルーに染められた、シルクのAラインのドレス。シンプルな型に、たくさんのリボンで可愛らしく彩られて……。


 彼は、目を剥いて、息を止めた。


(このドレス……見覚えがある)


 コートニーは、スコットの驚く顔を認めてから、ゆっくりと大きく頷いた。


「あのね、このドレスはね、お異母姉様が捨ててたのをあたしがこっそり回収して、メイドにお願いして仕立て直してもらったの。前のデザインだと、あたしには大人っぽ過ぎるから……」


「すてっ――」


 スコット絶句して、時間が止まったように固まった。

 指先からぴりぴりと痺れが伝わって、全身に鈍い痛みが走った。


(クロエが……捨てた? 僕のプレゼントを? ネックレスだけじゃなく、ドレスも…………?)


 たしかに、目の前の義妹が着ているドレスは、クロエが15歳のときにスコットがプレゼントをしたものだった。彼女が初めて王宮の夜会へ行く日――15になった貴族が国王陛下に挨拶へ伺う日に、ジェンナー公爵家から贈ったのだ。


 婚約者の瞳の色のドレスは、特別な意味を持つ。それをクロエも知っているはずなのに、捨てた。

 譲るのではなく、捨てた……?


 コートニーはうるうると瞳を濡らせながら、おずおずと口を開く。


「この前ね、お異母姉とあたしのお部屋を交換することになったの。そのときに、お異母姉様はいい機会だからって不要なものをどんどん捨ててて。その中に、これもあったの……」


「そう、だったの、か……」と、スコットは上ずった声で答える。喉がひりついて、まともに返答できなかった。


 不要。捨てる。


 これらの言葉が、彼の純真な心に、ずしりとのしかかって行く。

 そのままソファーから床に流れ落ちそうなのを、公爵令息という立場が辛うじて堰き止めていた。


 そんな心をつゆ知らずか、コートニーは幼子のように無邪気に言う。


「そうなの。それでね、このままじゃ綺麗なドレスさんが可哀想だから、お異母姉から焼却炉で焼かれる前に、あたしが回収したのよ。だって、こんなに素敵なドレスなのに、捨てるなんて勿体ないでしょう? きっと……贈った方や作った方の、温かい想いが込められてると思うから……」


「コートニー嬢……」


 スコットはまたもや押し黙る。今度は驚愕や衝撃ではなく、純粋に感銘を受けたからだ。


 目の前の少女は、なんて健気で純粋な子なのだろうか。まるで、ただのドレスに命が吹き込まれているかのように、愛して、慈しんで。

 こんなに優しい子には、今まで会ったことがない。


 彼は、これまではクロエが一番優しい子だと信じ込んでいたが、どうやら長いあいだ騙されていたようだ。


「あの……勝手にリメイクしてごめんなさい! 素敵なドレスだったから、どうしても着てみたかったの」



 コートニー本心からそう思っていた。


 あの日――クロエの部屋へ引っ越す際に、母と二人で異母姉のものを物色していたときだ。彼女はこのライトブルーのドレスに一目惚れをした。


 上等な生地で、精緻で上品なデザイン。まさに侯爵令嬢に相応しい一級品だ。

 こんな素敵なドレス、偽物の侯爵令嬢には似合わない。

 これは自分のものだ。あの女のものは、本来なら全て自分のものなのだ。


 だから、奪ってやった。

 あの女が泣き叫ぶ姿は、喜劇のように愉快だった。


 いずれ、目の前の婚約者も自分のものになる。

 そのときの異母姉の姿を想像すると、興奮でぶるりと全身が打ち震えた。


「だって……」


 コートニーは涙を一雫こぼす。

 さぁ、最後の仕上げだ。意地悪な異母姉にいびられる悲劇のヒロインを演じて、貴公子の心を我がものにするのだ。


「あたしは……」彼女の涙が加速する。「愛人の子だし、令嬢の基本もなっていない駄目な子だけど……。でも、お異母姉様とは仲良くしたくて……。でも、お異母姉様は……あ、あたしのことを…………」


 その後の言葉は必要なかった。彼女の綺麗な瞳からぽろりと零れ落ちた涙が、答えだった。


 スコットはコートニーの涙に全てを察して、受け入れる。

 そして――、


「きゃっ! ス……スコット、様……?」


 にわかに、スコットは悲しみに震えるコートニーを、ふわりと優しく包み込んだ。


「もういいんだよ、無理しなくて。……僕が、君の味方になる」


「はい…………」


 コートニーはスコットの腕の中に顔をうずめた。彼の胸は、火傷しそうなくらいに熱を帯びていて、彼女の体温も一気に上がった気がした。


 いつの間にか張り詰めた空気は、熱情がこもった空間に打って変わっていた。





 そのとき、焦ったように勢いよく部屋の扉が開かれる。


「スコット、ごめんなさい! 昨晩は遅くまで本を読んでいたから朝起きられなく――て…………」



 抱き合う二人の目の前に、化けの皮が剥がれて悪女という本性をあらわした姉――クロエが現れたのだった。


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