20 決別を宣言されました

「スコット、ごめんなさい! 昨晩は遅くまで本を読んでいたから朝起きられなく――て、…………」


 クロエは、その状況に総毛立つ。

 一瞬で頭が真っ白になって、眼前に映る景色の色素が抜け落ちた。

 

 明け方まで魔法理論の勉強をしていて、昼過ぎにやっと目覚めたら、なにやら屋敷が騒がしい。近くにいた若い新入りのメイドを問いただすと、なんと婚約者のスコットが訪問してきたと言う。

 それを聞いた途端に彼女は慌てて準備をして、応接室に駆け付けた瞬間だった。

 

 スコットとコートニーが抱き合っている。 

 信じられない衝撃的な光景に、クロエは頭が真っ白になった。

 剣呑さを孕んだ沈黙が場に落ちる。

 冷え切った空間の中、彼女は内なる胸の早鐘だけを聞いていた。



 

「随分な早起きだな」


 しばらくして、スコットの皮肉にまみれた冷淡な声が響いた。その声音は、いつもの優しさが内包された温かみはなく、真冬の泉のような冷たさで、クロエの不安を煽り立てた。


「どっ……」数拍してクロエはやっと消えそうな声を絞り出す。「どういう、こと…………?」


「どういうことだって? それは君のほうに訊きたいね」と、スコットの険しい声がクロエを刺した。


「な……なにを言っているの……?」


 クロエは動揺して、思わず半歩後ずさる。

 ただでさえ婚約者と異母妹の不貞を目撃して、あまつさえ婚約者からの非難。彼女の思考は現実に追い付かずに、ぐちゃぐちゃと頭の中を駆け巡っていた。


 射抜くような目線を外さないまま、一拍してスコットはため息をつく。


「君は毎日のように朝まで遊び歩いているらしいな。社交界で噂になっているぞ。とんでもない醜聞だ」


「えっ……?」と、クロエは目を丸くする。


 意味が分からなかった。

 自分は毎日、魔法の勉強しかしていない。それだけでへとへとで、夜は眠い目を擦りながら魔導書を読み耽っているだけだ。


(私が夜遊び……? もう、ずっとお屋敷から外へ出ていないのに……)


 前にクロエがジェンナー公爵家へ向かおうとして継母に阻止されて以来、彼女は侯爵邸から一歩も外へ出ることはなかった。

 父親から「魔法が使えないのに侯爵家の代表として参加するのは恥ずかしい」と社交は禁止されているし、王都へ遊びに行くのも「魔法が使えない者が贅沢をするな」と許可が降りなかったのだ。


 だから、スコットの言葉に心当たりは全くない――、


(いえ……あるわ)


 クロエは、今も我が婚約者の胸の中に居座っているコートニーを、おもむろに見やる。彼女はスコットの腕に抱かれたまま、他人事のようにこちらを見ていた。


 根も葉もない噂を吹聴した人物……思い当たるのは異母妹と継母だけだ。


 二人はパリステラ家に住み着いて以来、なにが気に食わないのか、ずっとクロエに執拗な嫌がらせをおこなっていた。

 きっと今回の噂も、彼女たちがばら撒いたに違いない。おそらくクロエが社交界に顔を出せないうちに、自分たちの地盤を固めようという魂胆だろう。



 ……そう考えると、クロエは一気に頭に血が上った。


「あなたなのねっ……!」


 かっと全身が熱くなって、自然と身体が動いた。

 怒りで胸が煮えたぎっている彼女は理性も蒸発してしまったようで、血走った目で異母妹を睨め付けた。

 激しい怒りを撒き散らしながら、こつこつと早足で異母妹のもとへ進む。


 そして瞬く間に彼女の腕を掴み、自身に強く引っ張ってから、


 ――パシンッ!!


 出し抜けにクロエはコートニーの頬を引っ叩く。息を呑んで目を見張る異母妹と婚約者。同時に姉の瞳からつつと涙が流れる。


「ふざけないでっ……! あなたたち母娘はっ、私からたくさん奪っていって……おまけに婚約者までっ…………!」


「ふざけているのは君だろうっ!」


「きゃっ」


 ドン――と鈍い音がした。

 スコットはコートニーを片手で抱き抱え、反対の手でクロエを突き飛ばしたのだ。

 彼女は床に倒れ、身体を打ち付けた。


「君はそういう女性だったんだな」


 顔を上げると、スコットの凍えるような冷たい視線が、彼女の双眸に落ちてきた。それはとても恐ろしくて、ぶるりと背中に悪寒が走る。


「君には失望したよ」スコットの暗い声が頭上で響く。「そうやって、これまでも妹を暴力でねじ伏せていたんだな」


「ちがっ……」


 クロエは反論しようとするが、絞りかすみたいな細い声は、彼に届かずに消えていく。

 スコットは険しい視線を崩さない。


「いくら新しい母親と妹が気に食わないからって、やって良いことと悪いことがあるだろう? それに、未婚の令嬢が夜遊びだなんて、断じて許容できない」


「それはっ、コートニーが――」


「まだ白を切る気なのか」


「っ……!」


 沈黙。

 押し潰しそうなくらいの張り詰めた空気が、クロエの口を閉ざさせた。


(駄目……。なにを言っても話を聞いてくれない……)


 悔しくて、やるせなくて……。クロエは押し黙って、ただ唇を噛んだ。血が滲む。だが痛いはずなのに、全身の感覚が麻痺しているみたいに、なにも感じなかった。


 絶望と虚無。

 それらは彼女の肩にどっしりと乗っ掛かっていく。

 さっきまで身体が熱かったのに、急激に指先まで冷えてきた。



 少しして、スコットが口火を切る。


「君のような女性とは、もう一緒にいられない」


 それは、決別の言葉だった。




 スコットはコートニーの顔に手を触れる。彼の瞳は打って変わって優しさで溢れていた。


「コートニー嬢、大丈夫? さ、僕と一緒に手当をしに行こう?」


 紳士的にエスコートをしながら扉へと向かう。これまで彼がクロエに対しておこなっていたように、慈しんで。


 茫然自失とへたり込んでいるクロエとすれ違いざまに彼は横目で見やって、


「悪かったな。君のお気に召さないプレゼントばかり贈って」


 怒気が孕んだ声音で、皮肉を一言置いていった。



 嫌な視線を感じで顔を上げると、コートニーが悪意の塊のようないびつな笑みを浮かべて、クロエを見ていた。






◆◆◆






「これはもう必要ないわよね」


 クリスはくすくすと笑いながら、無造作に箱の中に入れられた封筒の山を見た。

 そこには、クロエとスコットの手紙。婚約関係の二人が互いに誤解を解こうと、心を込めて書いた想いの詰まった手紙の数々が入っていたのだ。


 継母も娘と同様にクロエが大嫌いだった。

 初対面のときから継子をどうやって苦しめてやろうかと、ずっと考えていたのだ。


 たまたま高貴に生まれただけで、何一つ苦労も知らずに育った箱入り娘。


 自分や娘が、侯爵の愛人という理由で、世間から後ろ指をさされて悔しい思いをしていた間も、前妻の娘はのうのうと生きて。貴族令嬢としての高い教育を受けて。実の娘は平民の暮らしを強いられてきたのに。



 彼女は侯爵邸に引っ越す前……まだクロエの顔を見たこともない頃から、憎しみを募らせてきた。

 前侯爵夫人が憎い。前妻の娘も憎い。高貴な生まれの前侯爵夫人の娘を、絶望のどん底まで陥れたい。


 ……そんな歪みきった黒い感情が、彼女の胸の内を支配していた。




 クリスは侍女を伴い、焼却炉へ向かう。そして、めらめらと燃え盛る紅い炎の中に箱の中身を投げ捨てた。


「ふふっ……ふふふふっ…………」


 黒煙の中に、侯爵夫人の不気味な笑いが溶けていく。


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