9 前向きに頑張ろうと思った矢先の出来事でした

 クロエはこの頃、よく母親の夢を見た。


「クロエ、あなたは心から愛する人と幸せになるわ。だから、絶対に諦めないでね」


 父と関係が希薄な分、彼女は母親から多くのことを学んだ。

 淑女としてのマナーや教養はもちろん、物事に対する考えや心構えなども全て母から教わった。優しく、時に厳しく、母は娘を立派な貴族令嬢にするために育てていった。


 クロエはそんな母が大好きだった。


 だから母が鬼籍に入ろうとも、自分は母の意思を継いで強く生きていこうと思っていた。

 逆境にも諦めないで、真面目に、ひたむきに。努力を止めずに、他人を慈しむ。


 そんな母の教えを守って生きていくのだ。そして、いずれ出会う自分の子供にも――…………。









「クロエお嬢様、そろそろお時間ですよ」と、侍女のマリアンがソファーでうとうとと舟を漕いでいたクロエに優しく声をかけた。


「えっ……!」


 クロエはぱちりと目を開けて、飛び上がる。


「今日はコートニー様と一緒に授業を受けるのでしょう?」


 マリアンはくすりと笑った。主を見るその視線は愛情が詰まっていた。

 彼女はクロエの母親の代からパリステラ家に仕えていた。幼いクロエの乳母も兼ねていて、実の娘のように大切に見守っているのだ。


「そうだったわね……」


 クロエは憂鬱そうに息を漏らす。両肩に鉛が乗っているみたいに気が重かった。


 本音を言うと行きたくない。

 彼女は、できる限り継母と異母妹と関わりたくなかった。

 二人の意図が見えない。なぜ、嘘をつくのかも分からないし、そのことに良心の呵責もないことが理解できなかったのだ。


 これ以上、あの母娘の感情に触れるのが恐ろしかった。だって、本当に意味が分からないのだから。


「ちょっとお化粧を直しましょうね……あら?」マリアンは顔を曇らせる。「お嬢様、涙のあとが……」


「あっ、ごめんなさい。その……お母様の夢を見ていて」と、クロエは恥ずかしくなって目尻を押さえる。


「そうでしたか」


 マリアンはクロエに目線を合わせて、にこりと笑った。


「お辛いのは分かります、お嬢様。でも、大丈夫ですよ。お嬢様には私たちがいますから。ずっと、お側でクロエ様の幸せを願っておりますから」


「そうね……!」


 マリアンの言葉に胸が一杯になって、クロエの口角も自然と上がった。

 彼女はいつも嬉しい言葉を投げかけてくれる。母が死んで以来、それがどれだけクロエ支えになっているか……。


「ありがとう。私にはあなたたちがいたわ。だから、いつまでもくよくよしていては、いけないわね」


 そうよ、そうだわ。……と、クロエは自身に言い聞かせる。

 母亡き今、パリステラ家の長子である自分がしっかりしなければ。私がいつまでも悲しみの雨を降らせたままで、屋敷の雰囲気を暗くしてどうするの。


(スコットにも、直接会ってもう一度話をしよう)


 クロエは、マリアンや自分に仕えてくれる者たちの為にも、頑張ろうと思った。

 それが、高位貴族として上に立つ者の役目だから。





◆◆◆





 コートニーが屋敷に来て約一ヶ月半、ついに本格的に侯爵令嬢としての教育が始まっていた。


 母娘は結婚前からもパリステラ侯爵から貴族並みの立派な屋敷と召使いを与えられていたものの、貴族夫人及び貴族令嬢としての品位は求められていていなかった。侯爵が二人の天真爛漫な平民としての姿を好んでいたからだ。


 彼は窮屈な貴族生活に鬱屈していて、愛人とその娘には癒やしを求めていた。

 だから二人の前では礼節やしきたりなどの枷を打ち捨てて、普通の平民の家庭のような姿でいたかったのだ。


 だが、侯爵家に入るとなると、そうはいかない。

 侯爵夫人も侯爵令嬢もそれなりの品位が求められる。高位貴族は完全に社交から距離を置くことは不可避だからだ。

 だからロバートは、渋々だが母娘共に貴族のマナーを学んでもらうことにしたのだった。


 元来見栄っ張りで貴族の真似事が大好きだった母クリスは、高位貴族にはまだ程遠かったが、なんとか男爵夫人くらいには見えるようになった。

 既に社交界では彼女が元平民の愛人だと知れ渡っているので、夜会で大きな粗相をしない限りは周囲は目こぼししてくれるだろう。


 しかし、娘コートニーはてんで駄目だった。


 彼女は元より勉強や努力が大嫌いで、それに父親が負い目からか甘やかしていてので、少しの我慢もできない性格だった。だから家庭教師がいくら懸命に教えても、一向に身に付かなかった。


 このままでは社交へ出せる状態ではない。

 だが、パリステラ侯爵は「娘が嫌がることを無理強いさせることはない」と言っているので、家庭教師はとりあえず最低限の挨拶とフォークの使い方だけは覚えてもらうことにしたのだった。





 これから魔法の授業が始まる。


 人は誰しもが魔力を持っていて、それは身分が上がるほどに強くなる。国王は国一番の魔力を持ち、逆に平民は微かに体内に宿すだけだった。


 クロエは侯爵家の人間なので、本来なら膨大な魔力を保持しているはずなのだが、彼女は未だに魔力発動の予兆はなかった。

 これは個人差があって仕方のないことなのだが、16歳になる彼女が未だ魔法が使えないのは少し遅のでは……と、周囲から不安視されていた。


 しかし、魔法の教師によると、たしかに彼女の体内には魔力の源が眠っているらしい。

 だからクロエは、めげずに魔法の特訓に励んでいた。


 今日は異母妹のコートニーの初めての魔法の授業だ。

 悲しいことに、クロエも魔法が使えないので、今日は同じ初心者として一緒に授業を受けることになっていた。


(憂鬱だけど……初心に戻って頑張りましょう)


 マリアンの言葉にすっかり気を良くしたクロエは、新たな気持ちで取り組むことにした。異母妹と並んで先生から講義を受ける。


 目を閉じて、両手に精神を集中させて体内に巡る魔力を集約させる。

 集中……集中……魔力を集中…………、



 そのときだった。


 ドン――と、腹の底を揺らすような衝撃がクロエを襲った。


 驚いて目を開けると、隣に立っていたコートニーの両手からぷすぷすと煙が出ていて、彼女の前方にあった石像が粉々に砕け散っていたのだ。



 それから、二人の立場が逆転するのに、時間はかからなかった。


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