渋いか甘いか

いすみ 静江

かきの字

 俺の背に、どどりと落ちてきた。

 埃っぽい現場を発つとき、隣に鎮座していた木が実を揺すったのだ。

 荒川あらかわおろしに吹かれたのだろうか。

 黄色が焼けた肌の色をしている。

 その更に熟れた印なのか、黒いしみをつけている。

 触れてみると、食べてくれとやわらかく叫んでいた。

 どうれ、渋いか甘いか食べてみようか。

 冗句で口元を動かしたときだ。

 不思議なことに、ぐんと、白いものに囲い込まれてしまった。

 渋そうなものを握ったまま、腕をだらんとする。

 ぼさっとしたすすきが草深くなったと分かるのに幾らもかからなかった。

 思い出した。

 朝礼で、ここは原野だったから、地盤に注意するように指示があったばかりだ。

 しわぶきを漏らすが、まるで荒ぶる龍の如くうねる川に青い作業服の襟元を絞められる。

 扼殺やくさつなるかと抵抗するが、はっはっと呼気が乱れてしまう。

 最期に思い残さないようにしたいと願った。

 俺を看取ってくれるのは、妻だ。

亜美あみ、ああ、亜美。大和やまとだ』

 聴こえているらしい。

 亜美の大根を切る手が止まったのが分かる。

 喉の奥から糸を伸ばした。

 がんばれ、がんばって想いを届けるんだ。

 柴又しばまたで待つ妻へ武蔵野むさしのから便りを綴った。

『現場は遠く、帰りも遅い。先に食べていてくれ』

 自分で伝えておいて、おかしなことだとも思った。

 どうして、助けてくれと叫ばないのか。

 本当は芒の原野に参っているのだろうよ。

 水の龍に縛られて、もう限界だ。

 俺は身一つだから構わない。

 しかし、彼女と俺との間に、来月には産声が聞こえるから。

 もう、娘だと分かっており、寝具には桃色を選んであるからだ。

 苦しい中、甘い乳の香が堪らなく届いてくる。

 夢でも構わないから、妻と娘に会いたい。

『渋いものも干せば甘くなります』

『亜美なのか』

 俺の右手にあった渋いものを高々と上げようとした。

 芒に阻まれて、その甘くするつもりのものが落ちてしまった。

 どん、ころっと。

 思い出した。

 元々背中にどどりと降った実だ。

 これは、かき。

 かきを漢字にして、柿。

 武蔵野と深い関係があるとは思えないが、実際現場にあったのだから、致し方ない。

 妻には、土産話としてみよう。

             【了】

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渋いか甘いか いすみ 静江 @uhi_cna

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