第42話 生タヌキ

 その朝は、雨が降っていた。

 いつものように何気なく電源を入れようとしてボタンを押したが、うんともすんとも言わないではないか。ただ、最初は慌てなかった。タブちゃんが使いすぎて、充電が切れたのだろうと思ったからだ。今までにも、彼女が充電を忘れたことはある。だからケーブルを繋いで、改めてボタンを押した。

 ……。

 完全なる沈黙。

 壊れた。

 俺は、店舗の保証書を急いで探し出した。家を出る時間になったから、ともかくカバンにタブレットと共に突っ込んだ。帰りに修理を頼みに行かなくては。

 

 タブちゃんの「おはよう」が無い朝は気合が入らない。

 急ぎながらもどこかしらぼんやりしていた俺は、いつも地域猫のエサ皿が出ている場所で足を止めた。一匹がお食事中だ。

 かがみ込んだ丸い背中が雨に濡れている。濡れるのが嫌いな猫なのに、雨水でふやけた餌でも食べずにいられないほど空腹なのか。毛がペしょんとして黒っぽく見えるが、サビ猫だろうか。

 そっと1、2歩近づいたところで、それは振り返った。鼻先がずいぶん突き出ている。俺とそいつはしばし見つめ合った。もう1、2歩前に出る。相手はピクっとする。だが、それだけだった。なんと、やつは再びエサ皿に顔を突っ込んだ。なんとまあ、堂々たる振る舞いだろうか。

 むう。さすがタヌキ。

 雨で人通りが少ない道とはいえ、住宅街である。山でも限界集落でもない。そんなところで堂々とエサを喰らっているとは。

 静かにそのまま数歩後退り、俺はその場を立ち去った。本当はもう少し観察していたかったが、時間が無かったのもある。驚かせたくなかったのもある。だが、歩いているうちにじわじわと、初めて野生のタヌキと遭遇したことへの感動が胸の内に広がってきた。

 そもそもどこに住んでいるのだろうか。住宅街で住めるところといえば、どこかの庭か公園か。高齢者だけが住んでいるか空き家なら、植物が生い茂った庭も知っている。公園よりも安全そうだ。この街ではなかったが、毎晩決まった時間にエサをねだりに現れるタヌキの一家を動画で見たこともある。思っている以上に、人間の近くに暮らす生き物なのかもしれない。

 タブちゃんが、咲ちゃんの描いた動物たちにイワサブローを付け加えたくなったのは、タヌキがそれだけ身近な生き物だからかもしれない。当人からは「かわいいから描いただけや。この考察好き!」とか言われそうだが。

 ともかく家に帰ったら、タヌキとの遭遇について話さなくてはと思ったところで、タブレットが直らなくてはタブちゃんに会えないことを思い出した。メーカー送りになったら、それなりの時間を要するかもしれない。雨の降る空よりもどんよりとした気持ちになってしまった。

 が、しかし。

「三木君、久しぶり!」

 このところ見かけることのなかった湯浅さんが話しかけてきて、俺は正直嬉しかった。誰かに生タヌキのことを話したくて仕方がなかったからだ。

 ん? そう言えば、湯浅さんが女子と連んでいるところを見た記憶がない。でも、彼女は今日も笑顔だ。そして、赤系のチェック柄の短めスカートにブーツという服装も、それなりの主張をしている。

「春のコスプレイベントに向けて頑張ってるよー、私」

「うん、そりゃ良かった」

 浅沼さんのことについて、あれから湯浅さんと話す機会はなかった。だが、話したそうなそぶりがなくてホッとした。彼女がそういう人じゃなくて良かったっていうのは、なんだか偉そうで嫌だけれど、本当にそう思ったのだ。

「どう、カメラマンデビュー、考えてみない?」

「いや、遠慮しとく。で、今朝の話なんだけど」

 俺は自然にタヌキのことを話した。

「うわー、こんなとこにも野生のタヌキがいるんだ。ハクビシンがいるって話は聞いたことあるけど。まあ、それも見たことないけど」

「ハクビシンか。高校のころに見たことあるよ」

「私の地元にはイタチがいたけどね。あ、タヌキは潰れたやつなら見かけた、多分」

 潰れたやつ!

 俺の驚いた顔がおかしかったのか、湯浅さんは声を立てて笑った。

「ちゃんと見たわけじゃないよ。でも、イタチもだけど、郊外の道路で車に轢かれてるの。イタチは色でわかるけど、タヌキはねー、黒っぽくてもうちょっと大きかったらそうかなって」

 イワサブローと違って、運の悪いタヌキたち。

「キツネはいないよね。川の土手で撮った写真が、地元の新聞に載ってたことあるけど。見たことない。イノシシが車にぶつかったっていう知り合いはいるけど。あっ、すっごい田舎だと思ったでしょ。田舎なんだよ」

「ドブネズミが走ってる東京よりいいじゃん」

「あはは、ドブネズミもいるよ。おばあちゃんちに出たもん」

 湯浅さんは、早口でよく喋った。タブちゃんと話すのとはだいぶん違うけれど、やっぱり楽しかった。女子と喋ると、周囲からジロジロ見られると思っていたけれど、誰からも注目されていないと言い切れる雰囲気も良かった。気楽な感じで話せているからだろうか。

「私はこの後バイトだけど」

「あっ、うん。俺はパソコンショップに行く」

「そうなんだ。じゃ、またね」

 軽く手を振って別れたので、そのまま気軽にタブレットを修理カウンターに持ち込んだ。やっぱりその場では何もできず、預かりになると言われたが、そこまで落ち込まずに済んだのも、湯浅さんと話したからかもしれない。

 家に帰り着いてからは、タブちゃんのいない寂しさを感じたけれど、久しぶりに紙の本を読んできを紛らわせることにした。買ったまま積んでいた本があったから、数日はこれで乗り切れると思った。

 修理するよりも買い替えた方が良いと、店からの連絡が来るまでは。

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