第39話 通じ合うもの
罪は罪だが、人間性の全てを否定してはならない。
罪を憎んで人を憎まず。孔子だってそう言ったではないか。裁判官の心得だとも聞かされている。裁判官になる予定はないけれど。
正義を振りかざして攻撃的になってしまうネット上の〈匿名の人々〉は、我が身を振り返るがいい。目の前の浅沼さんを見て、俺は拳を握りしめた。
「三木君に会って良かったです」
深々と頭を下げてそう言った彼女は、再び顔を上げたときには迷いのない目をしていた。店の前で会ったときとは、ずいぶん違って見えた。
「あの。連絡先の交換しますか? 今後何かあったら、少しでも手助けを」
「いいえ、大丈夫です。でも、そう言ってもらってありがとうございます。タブちゃんさんも、ありがとうございます」
『あのっ、あたしは! 動物たちと違う新作を描いてますって言うて!』
何もない空間に頭を下げた彼女に向けて、そして俺に向けて、タブちゃんは叫ぶように言った。
『浅沼さんも描いてって、誰に見せるためやのうても、また描いてって言うて!』
「いや、それはどうやろ」
『え、言うたらあかんの』
「余計なこっちゃで、きっと」
「三木君」
浅沼さんは、そっと俺を呼んだ。
「あっ、すみません」
「タブちゃんさん、私を励まそうとしてくれてます?」
「ええ、それはそうなんですけど」
「なんとなく、聞こえないですけどなんとなく、通じた気がします」
彼女の口元にうっすらと笑みが浮かんだ。
「図々しいお願いがあるんですけど」
「はい?」
「タブちゃんさんの作品を今、読ませてもらえませんか。少しだけでも」
『ええよ、ええよ! ただし、皿の上のもん食べるんならな! お残しは許しまへんでー!』
有名なおばちゃんのセリフを言い放ち、偉そうに腕組みをするタブちゃんである。
俺が皿の上の冷めきった料理を見た目つきが、切なげだったせいだろうか。浅沼さんは「お行儀悪いですけど、食べながらでいいですか?」と言った。
「えっ? もしかして、タブちゃんの声が聞こえましたか?」
「あ、やっぱり。聞こえないですけど、食べなさいって言われた気がしました」
彼女は真面目な表情でそう言うと、いただきますと両手を合わせた。
タブちゃんはタブレットを引き寄せ、さっさと操作して〈イワサブローかく語りき〉を表示した。それからタブレットの向きを変え、浅沼さんから見やすいようにテーブルの上に斜めに立てて持った。側から見れば、スタンドに立てかけたような角度である。
「タブちゃんが持ってます。どうぞ、見てください」
「あの、それは申し訳ないです」
「大丈夫。疲れ知らずですから」
『あんたが言うな! まあ、ほんとのことやけど』
タブちゃんは、浅沼さんの目の動きを追って、ページをめくることまでした。浅沼さんの表情から察するに、タイミングはぴったり合っているようだ。
人の食事する様子をじっと見るのは失礼なことだという気持ちが働いて、俺は彼女たちからすぐに目を逸らした。店の出入り口に目を向けると、空き席待ちのお客さんが数組いる。近くの席では、昼間からビールを頼んで賑やかに騒いでいるグループがいるし、時間制限があるわけでもないのだが、すでに長居しているのが少々気まずい。財布の中身を考えると悩ましかったが、追加でブロッコリーのチーズ焼きを頼んだ。
『あんた、まだ食べんの』
「ええやろ、別に」
『甘いもんやないだけ、誉めたげるけどな』
誉めてもらわなくてもいいのだが、俺は満足してブロッコリーを食べた。
浅沼さんは程なくイワサブローの話を全て読み終えた。単行本にして3冊分くらいはあると思うのだが。
「ありがとうございました。元気が出ました。あ、元気出していい状況じゃないか……」
「元気出しちゃいけない状況なんか、この世に存在しませんよ。良かったです。な、タブちゃん」
『どんなときでも元気が一番! 読んでもろてありがとう』
「読んでもらってありがとうって言ってます」
「それで、あの」
浅沼さんが言いづらそうにしているので、子犬になったつもりで「はい?」と笑顔を向けてみた。タブちゃんは『きっしょいわ』と言ったけど。
「イワサブロー、すっごく好きです。お話も十分オリジナルになっていると思います。それで、あの、イワサブローがいなくなるのは悲しいです」
『ありがとうな。大丈夫、新作描いてるから! イワサブロー、出とるから!』
「えっ、やっぱり?」
『やっぱりって、なんやの』
「俺かて、イワサブローには消えんとってくれ思うてたんやで。癖になるしな。浅沼さん、もう新作描いてるそうです。イワサブロー、出てるそうです」
「そうなんですね。良かった。いつかどこかで、また読めることを楽しみにしています」
俺は、改めて連絡先の交換を申し出ようとして、ぎりぎりで踏みとどまった。それは浅沼さんの求めることでは無いと感じたからだった。
『浅沼さん、手ぇ出してって言うて』
タブちゃんに頼まれて、浅沼さんにそれを伝える。彼女は不思議そうな顔をしたが、テーブルの上に手のひらを上に向けて腕を伸ばした。タブちゃんはその手を両手で包み込んだ。
「あっ……風? タブちゃんさん、私の手を握ってますか?」
「はい」
浅沼さんは、食器を全て空にして帰っていった。その背中に、やって来たときに感じた黒い影のようなものは見えなくなっていた。
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