第29話 そんな女に騙されて
お前はまだ死んでいない。そう教えた俺に向けているのに、大きく見開いた目の中に俺は多分いない。ガラスのような瞳の奥では、さまざまな思いが行き交っているのだろう。ポカンとした間抜け面だが、顔立ちが整っているために見苦しくはない。見苦しくないが、ちょっと待て。だんだん開いてゆく口はアホっぽいぞ。
ハラハラして見守っていると、タブちゃんは突然柴犬のように勢いよく首を振った。
「この話はやめよ」
「は?」
「やめとこ。うん、そうしよ」
「なんでや!」
「これからだんだん売れっ子が出てくる」
タブちゃんは、コマーシャルの終わった画面に視線を向けた。
「ほら! あたしこの人ら好きやねん」
「おいこら」
ついうっかり腕を掴もうとして伸ばした手が、当たり前だが空を切った。
「アホやな。同じアホなら笑わにゃ損、損ってな」
「オバハンか!」
「ボクぅ、うるさいよ」
軽い言葉を寄越しておいて、タブちゃんは若手の漫才師に大笑いし、手のひらでスッコンスッコン机を突き抜けさせている。気分では叩いているつもりだろう。つられて画面を見ると、キンキラキンスーツと地味スーツの漫才コンビだ。見ていると、ツッコミの地味スーツがキレッキレである。顔も服装も地味めなので、ボケがたじろぐほどの逆襲が面白すぎる。ついつい引き込まれて大笑いしてしまった。
「良かったあ。あんた、笑えるやん。お笑い機能つけ忘れたロボットか思たけど」
次の演者はそれほど好みじゃ無いのか、小休止という面持ちのタブちゃんがこちらを向いた。
「いや、今それどころやないねんけど」
「なんでよ」
「まだ生きとる言われたら、考えることあるやろ」
「何を?」
ごまかしのない、子犬のような目である。
「体に戻ること考えなアカンやろ!」
「あー、それなあ。あたしの話と
明るく言われた瞬間ムカッと来た。
「なんでや!」
「その手の話なら、だいたい名前聞いた時点でピーンと来るやん。あんた、どこで誰からどんな話仕入れて来たん」
タブちゃんが聞く構えを見せたので、こちらも改まったのだが。
「あっ、待って! 今それどころやないわ」
俺でも知っている有名なコンビの出番になって、背中を向けられてしまった。
「それどころだらけやろがい!」
「うるっさいなあ。オカンか」
彼女はタブレットに覆いかぶさって、俺の目から隠すようにした。子どもっぽい仕草もだが、佐々木さんから聞いたお母さんの悲しいイメージからすると、どうにも失礼な言種である。思わずタブレットを取り上げようとしたのだが、死守されてしまった。
結局タブちゃんは番組が終了するまできっちり視聴し、部屋の隅に転がっていた俺も聞くだけ聞いて、そこそこ笑ったのだった。
「あー、面白かった。えーと、この後の番組は、っと」
「まだ見るんかい!」
「お正月は、
「知らんわ」
「けど、お昼間はニュースとスポーツやな。ちょっと休憩やわ。言うとくけど、三が日は夜までこれやるよ」
これとは、お笑い番組を追いかけることであろう。
「ほんなら、漫画は描かんのか?」
「今ちょっと、描く気にならんわ。何遍も描いたやつ思い出してるんやもん。どうせ、どっかの誰かさんと被っとんのやろ」
タブちゃんにしては、チクッと棘のある言い方だ。
「それやけど」
俺は起き上がって正座した。
「盗んだ方が作者面しとる思うわ」
「ふん? そう思った理由を述べよ」
教師的口調につられて、ぶぉーのに会ってきたことから喋り始めてしまった。そうしてコミケでの色々を、ユウカさんから佐々木さんのことまで一部始終喋ったのである。
「……あんた、なあ」
長い話の後で、タブちゃんはふうっと大きなため息をついた。
「そんな胡散臭い話に騙されたらあかんよ」
「胡散臭いって」
俺は呆然と彼女を見た。
「そうやろ。気のええお姉さんの生気乗っ取った時点で気付きぃな」
「あっ。そう言えばユウカさん、どうなったんやろ」
「アホ。なんのためのインターネットやの」
タブちゃんは、ブラウザから〈コミケ、救急車〉と入力した。先頭に出てきたのは数年前の夏のコミケの記事だが、今回のものもちゃんと見つかった。
「ほら、救急搬送された女性がいたが、その日のうちに回復したことが確認されたって。けど、災難やったねえ」
「それは激しく同意するけど、まずご自分の身の上に関してはいかがな感想をお持ちで?」
「いかがもへったくれも無いわ。万が一、万万が一、あたしの本体が植物状態になっとぉとしようや。そんなん戻ったら牢獄も
「そんな言い方ないやろ……に」
タブちゃんは家族とされる人々に対する怒りも悲しみも見せなかった。
「そっちの話は、もうあたしには関係ない。はい。あたしのことは、ちゃんとタブちゃんって呼び」
「はい」
「サキちゃんやなかった彼女の名前は?」
「え? 湯浅さんのこと?」
「よっしゃ、もろた!」
タブちゃんは、なんで楽しそうなんだろう?
話疲れと気疲れで、全身の力が抜けた。
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