第25話 抜け出した人
弟はタブちゃんに死ねと言った。佐々木さんはそれを、呪いの言葉だと言った。いつも明るいタブちゃんが、身内にそんなこと言われたとは信じられない。
「そこまでのことを言わせるような理由を、知っているんですか?」
俺は佐々木さんに訊ねるしかなかった。
[問わず語りをつなぎ合わせたらという話ですけど。サキちゃんは、小学校のうちから不登校になって、長く引きこもっていたらしいんです]
あのタブちゃんがという驚きが顔に出たのだろう。佐々木さんはゆっくりと頷いてみせた。
[家族にそういうことがあると、特に小さな子どもは、強い影響を受けます。見た感じ5、6歳は離れている弟さんは、学校に行かないお姉さんのことを理解し難かったのでしょう。お姉さんは家にいるのに、自分は学校に行けと言われる。お姉さんばかりが甘やかされていると考えるのも無理はありません。それにどうも、お父さんが、子どもたちにあまり関わろうとしなかったようで。お母さんも苦しい胸の内を、ポツポツ打ち明けてくれました]
喉がぐっと鳴ったけれど、言葉は出なかった。
[サキちゃんは、事故からそう遠くないころに、あのタブレットを買ってもらいました。それで漫画を、三木さんも知っている漫画を描いていたんだと思います。いえ、お母さんも見たわけじゃないんですって。ただ、小さい頃から描くのが好きで、唯一ねだるのがノートだったのに、買ってきてと言わなくなったから。お母さんとしては、インターネットで世間に触れたり、勉強したりして欲しかったらしいんですけどね。絵を描く機能があることも知らなかったそうですし。でも、熱中している人特有の変化のようなものを感じたそうです。ずっと気にかけてきた母親ならではですよね]
「良いことじゃないですか」
[ええ。でも、弟さんにはさぞ、面白くなかったことでしょう。それもわかります。そのころから急に、家の中で暴力を振るうようになったと]
佐々木さんは、大きなため息を漏らした。
[ドアや壁が傷だらけになったとおっしゃっていました。そんな日々で、自分の心が弱くなっていったことを、お母さんはとても悔やんで]
「お母さんが弱るのは当たり前です」
[ですよね。でも、弟さんに押し切られたんでしょうけど、サキちゃんを引きこもり矯正施設に預けることにしてしまって……。それを悔やんでいらっしゃったんです]
「施設?」
俺も聞いたことがある。強制的に家から引きずり出して、作業療法などをやらせる施設について。良心的な施設ばかりではないという話だ。
[どちらかというと、弟さんのケアを先にすべきだったと思いますけれど、全てはすでに起こってしまったこと。他人が後から言ってもしょうがないことです。施設の人たちがサキちゃんを連れ出したその日に、施設に向かっている途中で、その車が事故に巻き込まれたんです。居眠り運転のトラックに衝突されたんですよ。なんと不運なことでしょう]
俺は冷えきった自分の両肩を抱いた。そんなことなら、思い出さなくても良いではないか。佐々木さんは、どうして思い出させようとしているのだろう。
不満が顔に出たのだろうか、佐々木さんは俺を宥めるように[三木さん]と呼んだ。
[長く教員をやっていますと、色々な家庭を見ましたよ]
やっぱり先生だったのかと腑に落ちた。
[すべての家庭、すべての人に共通する答えなどありません。けれど一つだけ、どんな場合でも選ぶべき選択肢があります。自らを殺さないという選択肢です]
「それは、まあ、わかります」
[弟さんの話には続きがあります。病室の隅に立ち尽くしていた私を完全に無視して、彼はさっさと出て行きました。そして後日、私はまた彼を見たんです]
時間の概念が失われたのでと断りがあったが、どこかの段階で佐々木さんの旦那さんはもう亡くなっていた。葬式はきちんと済ませたはずだという。おそらく初七日が過ぎてから、タブちゃんを気にした佐々木さんは見舞いに訪れた。タブちゃんの意識は戻っておらず、お母さんも病室にいなかった。だからだろう、弟が現れたのだ。ベッドの脇の椅子に座っていたはずの佐々木さんは、またもや彼に完全に無視された。
弟は目を開けないタブちゃんに見せつけるようにタブレットをかざし、これから売りに行くと言ったという。
[そのときです。横たわったサキちゃんから、生気が抜けて行くのがわかりました。何かが見えたのではなくて、ただわかったんです。弟さんにも、他の誰にもわからなかったでしょうし、機械類も異常を察知しませんでした。サキちゃんの生気はタブレットに吸い込まれて行きました。後はもう、抜け殻です。タブレットを持って出て行く弟さんを、私は慌てて追いかけました。慌て過ぎたのか、肉体を離れてしまったことに気づいたのは、お店についてからでしたよ]
「え?」
自虐的な笑みを浮かべる佐々木さんの言葉の意味を理解するのに、しばらくかかってしまった。
[私たち夫婦には子どもがいませんから、姉の息子がすべてを取り仕切ったはずです。面倒をかけて悪かったけれど、それなりの財産は残したつもりです。それに、長患いもしないで、よりにもよって病院でポックリなんて、ふふ、気遣いのできる人だって思われたかも]
佐々木さんは微笑んでいたけれど、旦那さんの最期を看取った病院で急逝したことで、より一層の寂しさを感じた人たちも多かっただろうなと俺は思った。
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