第21話 雄と雌との間には

 ぶぉーのを名乗る女性は、腰に巻いた短いエプロンのポケットから、何枚かの小さな紙を取り出した。

「1枚引いてください」

 トランプのように差し出されたものを、勧められるまま引いてひっくり返すと、ウサギのシールだった。

「あ、ピョンタだ。もらっていいんですか」

「お買い上げのおまけです。家のプリンターで印刷しただけですけど」

 相変わらず小さな声だ。俺もなんとなく小声になってお礼を言った。それ以外に何を話せばいいのかわからなくなって、手の中のシールをじっと見つめる。そうしたら、記憶の中の動物たちが動き始めた。

「ピョンタ、良いキャラですよね。頭に蜜柑が落ちてきて、いたって首をすくめたら鏡餅みたいになったとことか」

「私も気に入ってます、そこ」

「でも、意外と男らしい面もあったりして、いや」

 緊張すると余計なことを言う癖のある俺は、慌てて口をつぐんだ。女性蔑視的発言をしてしまったら大変だ。

「あの、ありがとうございました。じゃあ」

 去り際に改めてぶぉーのの顔をちらっと見たが、まだ何か言いたそうにもじもじして……というには何か切羽詰まったものが感じられる。俺も初対面の人物と会話を弾ませることは苦手だから、似たような性格なのかもしれない。ネット上のファンと直に会えて、感想とか聞きたかったんだろうか。でも大丈夫、俺の他にもファンはたくさん来るだろう。マジョリーナ・湯浅嬢と写真を撮りたいと申し出た人を中心に小さな囲みができつつあり、俺は急ぎ足でその場を離れた。

 人、人、人。俺は生き残るウサギにならなければ。


 ……あれ?


 何かが頭に引っ掛かったが、気を取られたら歩けない。正体を見極める前にその何かは霧散した。そして俺は出口を見失った。目的の場所があったときはなんとかなったのに、適当に歩き出してしまったせいだ。仕方がないので、一つ一つ見ながら歩くことに決めた。アニメもゲームも詳しくはないが嫌いじゃない。湯浅さんだって、大学に入るまでは来たくても来られなかったというコミケ会場に来ているのだ。始発に乗って、大行列に耐えて入場したからには、よく見なければ損だろう。

 損得で考える俺の性格もどうかとは思うが、ちゃんと目を配って歩くと楽しくなってきた。世の中には実にたくさんの漫画やアニメ、ゲームがあるものだ。同じ作品を扱ったサークルもあり、その数で人気の程もうかがえる。

 流れに沿って歩いていたら東館の外に出ることができ、俺はとりあえず持ってきた緑茶のペットボトルに口をつけて一息入れた。荷物を入れてきたトートバッグの中に、タブレットは無い。

 タブちゃんをここに連れてくるべきかどうかは、家を出るギリギリまで迷った。さりげなくタブレットを取り出して見えるように持ったら、ぶぉーのは気付くか。どんな顔をするか、確かめてみたかった。かつての持ち主たちはタブちゃんを見ることができなかったというが、タブちゃんは元の持ち主かどうか見分けられるのか。

 けれども、トラブルの発生は避けたかった。

 タブちゃんを呼び出してしまったら、会話を一切しないというわけにはいかないし、見て見ぬふりも難しい。

 目立つことを極力避けたい俺としては、自分の目でぶぉーのを見ること、作品集を買ってよく読んで、できればタブちゃんにも読んでもらうこと、その二つだけに絞るしかなかった。

 ちびちびと喉を潤しながら、ぶぉーのは盗作をしそうな人に見えなかったな、と思い返す。盗作なんかしたら、バレることを怖れて寝られなくなりそうな人だったと思う。もちろん、外見と喋り方だけで判断できるものではない。でも俺の考えは、〈原作者がぶぉーので、タブちゃんはそこにイワサブローを付け加えた〉という方に傾いている。タブちゃんが生きた人間じゃないからには、それが真実でも責められるものではない。とりあえず俺としては、タブちゃんにイワサブローたちの話を存分に描いてもらい、唯一の読者として賛辞を送り続けよう。

 そして、どうかな。コミケに来たことは話そうか、内緒にしておこうか。

 ペットボトルのキャップを締めてバッグに戻していると、すぐそばを通った二人連れの女子の会話が耳に入った。

「ええー、あの人絶対、女だよ。どうしてわからないかなあ」

「そんなはずないって。男だったってば。めっちゃカッコ良かったじゃん」

「女。ぜーったい女。宝塚だって男役はカッコいいもん」

「信じられなぁい。背も高かったし」

「有名なレイヤーさんかな。調べたらわかるかな」

 なんのキャラのコスプレかは知らないが、男女の区別がわからないくらいすごいのか。ちょっと見に行こうと踏み出した足が、勝手に止まった。タブちゃんが『ピョンタとツノタロウちゃうん』と言った声が蘇る。

 ウサコとシカオ。ぶぉーののキャラクターの名前。名前のあるウサギは一匹しか出ていないはずで、それはメスだった。

『意外と男らしい面もあったりして』と言った自分の声も思い出す。

 あの時、ぶぉーのはどんな顔をした? 嫌だ、女の子ですよと言ったか? 言っていない。

 俺はさっき出てきた東館に再び入った。

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