第13話 生きている人
タブちゃんは今日も描いている。昨日も一昨日も描いていた。でも、まだSNSに上げた形跡は無い。
俺もまた、自分の生活リズムを取り戻していた。タブちゃんは飯を食べないし、風呂に入らないし寝ない。きっかけがあれば会話をする。ときには長話をする。それだけだ。
その日の午後、俺は冬休み前最後の民法の講義を受けていた。階段教室の一番後ろの角が定席だ。一つ空けた隣に、驚くほど熟睡している女子がいた。長い髪が机に広がっているのを見て、タブちゃんのことを思い出してしまった。
教授の声だけが聞こえるはずの教室で、俺の耳には彼女の寝息が必要以上に届く。厳しいことで有名な教授である。俺は気が気ではなかった。居眠りが原因で退室を命じられ、当然ながら欠席扱いになった同級生も見たことがあるのだから。
教授の視線がこちらに向いたと感じたとき、俺は咄嗟に机の下で、蓋の開いたペンケースを彼女の方に勢いよく投げていた。ガシャガシャと音がして、多くの学生が後ろを向いた。
「すみませんっ! 落としました」
今更だが緊張で声が上ずった。複数の笑い声が聞こえた気がする。
「あー、気をつけなさい。速やかに回収するように」
「はいっ!」
俺は急いで机の下に潜り込み、寝ている彼女の足をボールペンの尻で突いた。ガバッと顔を上げる気配に「ごめんなさい」と大きめの声で言っておく。
散らばったペン類を拾い集めていると、彼女もかがみ込んで一本拾ってくれた。
「あっ、ありがとう」
はいつくばった状態から見上げると、彼女の髪が目の前に流れ落ちてくる。少しばかり屈辱的で魅惑的な眺めだった。俺がとるべきではない体勢だった。
急いで席に着いたが、目立つことをしてしまったという後悔と、すぐ目の前にあった女性の足の残像にくらくらして、以後の講義内容が全く頭に入らなかった。ショートブーツと黒いタイツに包まれた足。タイツというものは暖かいのだろうか。母親は滅多にスカートを履かないし、タブちゃんは素足だが暑さ寒さは感じない。そういえば、幽霊に足が無いというのはどこからもたらされた情報だったのだろう。昔は着物だったから、足が見えなかったのだろうか。そうそう、幽霊は宙に浮いているというのも定番だな。タブちゃんは床に立っているように見えるのだが。でも、床にめり込むこともできるはずだ……。
妄想に囚われていると、いつの間にか講義は終わって、学生たちも教室を出始めていた。慌てて片付けていると、斜め後ろに立つ人物がいた。
「ありがとう。起こしてくれて」
そう言ったということは、爆睡していた女子であろう。さっきまで顔が見えなかったので、というより声をかけられても直視できないので、下を向いてブーツで確かめた。
「いや、別に」
「ゆうべ徹夜して、眠くて限界だったの。休みたかったくらい」
「そ、それは」
「でも、前にも休んじゃってるから、ぎりぎりなのよね」
この〈休んじゃった〉は体調不良ではないだろう。チラッと見ただけだが、派手寄りの地味、地味寄りの派手、どちらにしてもサボっちゃったという雰囲気だ。
「そう、なんだ」
もういいから、さっさと立ち去ってくれないかなあと思っていたら、彼女は驚くべきことを言った。
「ね、いつもあそこに座ってるよね」
なぜ知っている? なぜ派手めの女子が俺の存在を認識している? 驚いて返事ができない。
「いやだあ、私、警戒されてる?」
「い、いや」
「大丈夫、勧誘とかしないから」
彼女の笑い顔に影が差したように見えた。またやらかしたのか、俺は。
「話したことないのに、ぐいぐいいっちゃった。学校で話す人があんまりいないから、ごめんね」
そんなはずないだろうと思ったが、謝られると悪いことをした気持ちになってしまう。
「いいよ。じゃあ」
軽く頭を下げて立ち去ろうとしたら「待って」と止められた。
「この後空いてない? 図々しいってわかってるけど、ノート見せて欲しいの」
「あっ、今日は、俺、ちゃんと聞いてな、」
「今日のじゃなくて、前の二、三回分。これからコピー取らせてもらえない? 本当に図々しいんだけど」
自慢じゃないが、俺はノートにこだわるたちだ。講義中に書き殴ったものを、家に帰ってから別のノートにまとめている。複数の色ペンと定規を駆使してだ。もちろん誰に見せるものでもない。それでもわかりやすく仕上げた自信はあるのだ。
「うん。予定はないから」
「いいの? 助かる!」
彼女は両手を打ち合わせて喜んだ。
「冬休み前だし、今日見せてもらえなかったらヤバいところだったー。本当にありがとう」
「いいよ、それくらい」
俺たちは連れ立って、コピー機を使いに行くことになった。この俺が、女子と二人で学内を歩くとは! 心の中は大騒ぎだったが、冷静を装って歩いたつもりだ。少なくとも右手と右足を同時に前に出してはいないと思う。
コピー機の前に立ってノートを渡したら、彼女に「すごーい! わかりやすい!」と絶賛されて、柄にもなく『どうやー!』と絶叫したくなった。せんけどな!
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