第6話 田中三郎の来訪

 タブレットを買ってから、つまりタブちゃんに出会ってから3日目。火曜日は1限目が空いているので、朝がゆっくりだ。

 二晩続けて雑に切ってしまったことを反省し、準備を全部済ませてから、俺はタブレットの電源を入れた。タブちゃんの頭がちょっとのぞいたところで「おはよう、朝やで!」と先回りして言っておく。

「あら、おはようさん。おはよう言うたん、初めてやないかしらん」

「そら良かったな」

 ほんわかムードになりそうなところをグッとこらえて、俺は下っ腹に力を込めた。

「なあ。俺、考えたんやけど」

「うん?」

「タブちゃんは、タブレットに憑いてるからタブちゃんやん。忘れとるにせえ、強い思いがあるはずやろ」

「いやあ、そこまで力まんでもええよぉ。忘れるくらいやもん」

 これや。これで脱力させられるんやと思いつつ、俺は首を横に振った。

「これから、出かける前に電源入れてくようにするから。俺がらんときは好きに触っとって」

「あれ」

 タブちゃんはパッと目を見開いた。その〈あれ〉は指示語ではなく感動詞である。

「その代わり言うたら何やけど」

「はい?」

「漫画と動画のアプリ、入れといて。俺のアカウントで。知っとぉやろ」

「うん」

「好きに使つこてええから」

「無料のやつはな」

「うぉおい、クレカ番号知らんやろがい!」

「何や、一瞬マジで心配したやろ。使い込んだりせぇへんわ」

 タブちゃんのケラケラ笑いは、心と体に効くと理解した瞬間だった。

 俺は〈家に仔猫が来たようなもん〉と頭の中で繰り返しながら、ふわふわした気持ちで家を出た。


 その日学校では、一日中陽気な気分で過ごした。はたから見たら気持ち悪い奴だったかもしれない。後からそういうふうに分析してしまうのが、俺の悪いところだと思う。おっさん社長キャラのように「やあやあ諸君、元気かね」と挨拶して回りたい気分であろうと、思い出し笑いをしていようと、他人の知ったこっちゃ無いのである。それでも自分ではどうにもできないので、出かけたときよりはかなり落ち込んだ気持ちで家路についた。

 俺の住んでいるマンションの住人は、学生と社会人が半々くらいである。その1階の中ほどが俺の部屋。一つの階に8部屋が並んでいるが、1階で灯りが点いていているのは端の1部屋だけだった。なぜ?と思って初めて、タブちゃんが灯りを点けるわけが無いことに思い至った。そして、明るい部屋に出迎えられることを期待していた自分にも。

「アホやな、俺は」

「アホでしょうよ、君は」

 口をついて出た独り言に、暗がりから返す声があって、文字通り飛び上がった。エントランスに向かう途中に、田中三郎が立っていた。

「おっ、おっ、お前っ、何だよっ」

 自分の瞳が潤んでいるのを感じながら、俺は声を抑えて抗議した。

「そんなに驚くと思わなかったよ。前にも待ってたことあったじゃん」

 悪い悪いと拝むようにしながらも、彼はヘラヘラ笑っていた。

「近くに来る用があったからさー。10分待って帰らなかったら帰ろうと思ってたとこ。まだ5分も経ってないかな」

 彼は、一緒に歩きながら右手に持った紙袋を掲げた。

「ガトーYoshiの焼きチョコ、買って来いって母さんが。行ったら、期間限定のムースが残ってて。食べねえ?」

「本当にスイーツ好きだね」

「お前と違って餡子は苦手だけどな」

「持って帰ったら、母ちゃんも喜ぶんじゃね?」

「ムースは今日中に食べなきゃだろ。晩飯後に出したら太るって怒られるんだよ。でも、俺は食べたいの」

「10分待っても帰らなかったら、一人で2個食べるつもりだった?」

「うん。こっそりな」

 なんでこの男は痩せているんだ。その言葉は胸の内でつぶやいて、俺は自室の鍵を開けた。玄関、と言うよりキッチンの照明スイッチを押して、普段はそんなこと言わないが「さあどうぞ、田中三郎くん」と言う。

「おう。お邪魔しまーす」

 彼は不審がらずに靴を脱いだ。キッチンや水回りと居室の間にドアがあって良かったと思いつつ、彼には先に手を洗うように勧めた。その間に居室の照明スイッチを入れる。

 折りたたみテーブルの前、タブレットを前にしてタブちゃんがにっこり出迎えてくれた。

 俺は、洗面台のある風呂場の方を指で示して、OKサインを出しつつ首を傾けて見せた。タブちゃんは、うんうんと力強く頷き返す。

 すぐに田中三郎が居室に入ってきた。

「じゃあ、俺も手を洗ってくるから。えーと、お湯沸かしといてもらおっかな」

 そう言って部屋を出ようとしたら、田中の返事が無い。

「田中?」

 妙な顔で立ち尽くしている彼の視線がテーブルに向いているので、タブちゃんが見えるのかと心臓が跳ね上がった。

「なあ、三木」

「うん」

「あれはどうして動いてるんだ?」

「あれって? あ!」

 彼が見ていたのは、タブレットの画面だった。タブちゃんが俺の顔を見て、可愛らしく舌を出す。なんと、落ちものゲームをやっている最中だ。

「い、家に帰ったら、サニーに話しかける習慣が、その、朝やってたゲームの続きが」

「サニー?」

「やっほーサニー、電源を切って!」

 顔が火照るのを我慢して、タブちゃんに向かって言った。タブちゃんは腹を抱えて笑う仕草をして、【サニー】の代わりに電源を切ってくれた。そう。まだ音声認識設定はしていないのだから。


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