第20話 墓穴
アラン・ソレイユは生粋の軍人であった。代々ソレイユ辺境伯家は軍閥貴族の名門として知られてきた家系である。
ゆえに彼もまた幼い頃から軍人になるべく育てられてきた。
軍人としての戦いは全て王国の為の戦いだ。私情の挟む余地のない任務なのだ。そういう意味でソレイユは生まれてこの方、私情で戦った事はない。
もちろん喧嘩は別である。所詮は遊びの範疇での事を戦いと同列に考えるのは馬鹿げていよう。
では、いま決闘をしているソレイユの戦いはどういう戦いなのであろうか?
言うまでもなく私闘であった。今までの軍人としての戦いとはまるで違う、私情を挟んでの戦いなのだ。
だがそれがどうしたとソレイユは思う。戦場での感情の制御は軍人の基本である。決闘に私情が挟まれるのならば、制御すればいいだけの話だと気にも留めなかった。
その考えがやがて墓穴を掘る事になるとも知らずに、今ソレイユは軍人としてダミアンと決闘していた──
「おいソレイユ、知ってるか? ルーナの内股の肌は白くて滑らかなんだぜ。今でもこの手に感触が残っているわ」
薄ら笑いを浮かべたダミアンは下品に指先を動かしながら、「って事はきっとあそこも滑らかに違いねえ」と舌舐りをした。
自分の愛する者への性的侮辱に怒りを覚えぬ者はいまい。ソレイユにしてもダミアンのルーナに対する侮辱を無視するなど、普段の彼なら有り得ない事だ。
ところが軍人としての戦い方が骨の髄まで染み付いているソレイユは、その感情そのものを無視できた。いや、そう自覚していた。
「当然てめえはもう
ダミアンは貴族とも思えぬ下劣な言葉で、執拗にルーナを性的に侮辱し続ける。ソレイユにとっては無駄な事だというのに。
だがなぜだろう、冷めた感情がソレイユの脳を痺れさせていくのは……
「
「……おいダミアン、俺たちは戦う為にこの場にいるんじゃなかったのか? お喋りをしに来た覚えはないぞ」
ソレイユは脳の痺れを振り払うかの様にして、ダミアンの前で剣を薙ぐ。
「それとも挑発のつもりか? なら生憎だが、軍人である俺に心の動揺は期待できんな。諦めろ」
「──へえ。そいつはどうかなあ?」
ダミアンのこの意味ありげな態度は何だろうか? 仮に挑発出来たところで二人の戦力差を埋める程の効果はない。
ソレイユは不可解に思いながら、なぜか脳の痺れが増していくのが気になった。
「なあソレイユ、俺は今のおめえの様な目をした人間を何度も見てきたぜ」
「目だと? 俺の目がどうした」
「ふふ、今のおめえの目は、犯されてる時の女の目とそっくりだ。感情を殺して現実逃避をしている女の目にな!」
訳がわからんとソレイユは思った。しかし図らずもそれは真実であった。
もしこの時、ダミアンの言った事に注意を向けられたなら、これから起きる不幸は回避出来たであろう。
だが、ソレイユは軍人の自分が現実逃避をする事など無い話だとして無視したのである。
「ルーナを犯せば、やっぱ同じような目をするんだろうな。俺はその目が大好きなんだよ、ああ、たまらん──ッ!」
下卑た笑いと共にソレイユに向けて突き出されたダミアンの短槍は、その魔法の発動を許す前にソレイユの剣の一閃によって叩き斬られた。
「その調子だダミアン。ちゃんと決闘をしようぜ。耳障りなお前の声には飽き飽きだ」
剣を地に引き擦りながら無防備に近づくソレイユの表情は、あたかも仮面の様である。
ダミアンは僅かに恐怖を覚えると、
ソレイユのこの異変に最初に気がついたのは、おそらくオリガであったろう。
(いつものソレイユ様じゃない……)
遠くから観戦しているだけのオリガには、もちろんその異変の正体を知る事は出来ない。しかし明らかに何かがおかしいのだ。
(もしかして我を忘れてる?)
しかし軍人としてのソレイユをよく知るオリガにとって、それは考えられない事であった。
でももし今のソレイユが軍人ではなく、ただの一人の男としてのソレイユだったら……
ルーナの事となると簡単に冷静さを失って、感情的になってしまうソレイユの事が頭を
(だとしたら、ソレイユ様はそれに気がついているのかしら……)
オリガは何とも言えない嫌な予感に襲われた──
脳が痺れるというのは抑圧された感情が悲鳴をあげている結果である。自身の心を守るため脳が何も考えない様にと、心の防衛本能が働いているのだ。
ソレイユが軍人として無視し続けてきた怒りや憎しみの感情は、決して消えた訳ではなく抑圧しているに過ぎない。
ゆえに知らぬ間に彼の思考力は低下し、ただ愚直に戦う事しか出来なくなっていた。
「ダミアン覚悟しておけ。お前のその声を聞くのも今日で最後だ。二度と聞きたくはないんでな」
ソレイユは冷めた目付きで亀の様に身構えるダミアンの事を見下ろしながら、ルーナを凌辱した忌まわしい言葉の数々をその声ごと消し去ってやろうと思った。
ゆえに甲冑の上からダミアンの喉を叩き潰すつもりで剣を振りかぶる。
たとえダミアンの挑発に乗っていたとしても、戦いにおける実力差は歴然なのだ。ソレイユなら造作もなく打ち負かすだろう。
そんな事はダミアンとて分かっていたに違いない。それなのにダミアンは盾の陰で嗤っていた。
ソレイユは冷たく鋭い目線だけでダミアンをその場に縫い付けながら、結界ごと盾を両断する勢いで上段から剣を叩きつける。
その衝撃は不快な不協和音を伴って結界を歪ませ、その防御魔法に亀裂を走らせた。
間髪入れずにその亀裂へと再びソレイユの重い斬撃が振り抜かれた瞬間、ダミアンの防御結界は粉々にと砕け散る。
腹に盾を置いたまま仰向けに倒されたダミアンは、まるでひっくり返った亀のように無様であった。
「これで終わりだ、ダミアン」
ソレイユはダミアンにと跨がって、彼の喉を覆う甲冑を真上からその剣で叩き潰そうとする。
そんな力任せで迂闊な戦い方をするソレイユは、確かに思考力が低下していた。
まるで憎悪に囚われているかの様なその戦いぶりにソレイユ自身は気づいていない。いつもの軍人として戦っていると未だ思っている。
そこに決定的な隙が生まれた──
「ソレイユ、お前が終わりだぜッ!」
ダミアンの盾から噴射された霧状の何かをもろに浴びたソレイユは、咄嗟にその場所から飛び退く。
防御結界の他にも何らかの仕掛けがありそうだと、決闘の最初に思っていた事も忘れ去り、まんまとその仕掛けに嵌められた軍人は己の迂闊さを呪った。
(チッ、魔法か! いやこれは違う?)
「ハッハーッ! ざまあみろッ! 瘴気をくらいやがれえッ!」
ダミアンが噴霧した瘴気はただの瘴気ではない。三十年程前に各国が競う様にして錬金術師に開発させた、より毒性の強い毒瘴兵器である。
しかしその効果は国土を荒す上、あまりにも非人道的であった。ゆえに神の名の下に各王国は条約をもって国際的な禁止兵器とした
そんな危険な兵器の攻撃を受けたソレイユが無事でいられる訳がない。
毒瘴兵器のガスは
「瘴気だと……!? そ、そうか毒瘴兵器か。貴様、国禁を破ったなッ!」
両手を地に着けて苦しそうに涎を垂らすソレイユを、ダミアンは嬉しそうに見下ろしていた。
「バレなきゃ問題ねえさ。浄化する手筈は整っているからな、証拠は残さねえよ」
実際それは可能だろう。突然ソレイユとダミアンの形勢が逆転した事で観衆はざわめき立ってはいたが、誰一人として毒瘴兵器の存在に気がついている者はいない。
オリガでさえ何が起きたのか分からずに戸惑っているのだ。
(こんな事が出来るのは、宰相しかおるまい……)
決闘前にいたダミアンの介添人たちを思い浮かべたソレイユは、彼らが毒瘴兵器の技師たちであったと気づく。
ダミアンに瘴気の影響が無いのも、彼らが鎧に結果を張ったからだろう。
この国禁に定められた兵器の管理は、彼らの様な瘴気の専門家に委されていた。
むろん彼らの管轄は軍の下にあったのだが、その情報が今回もまた宰相の協力者によって隠されてしまったようだ。
しかし初めから宰相が毒瘴兵器を使う事を想定して、情報部に協力者を作ったとは思えない。
ソレイユの提訴した決闘婚という予想外の反撃に、国禁を犯す賭けにでたのだ。
そこまでしてでも政治閥貴族の長であるギュンター公爵は、この決闘に勝たねばならなかった。これ以上軍閥貴族に負ける様な事になれば、宰相としての権威の失墜にも繋がるからだ。
(古狸め……)
またしても宰相の悪癖に満足を与えてやる結果となった己の失態にソレイユは苛立つ。
だが、このまま無様に負けるわけにはいかないのだ。ルーナとの約束を果たす為には、この決闘に必ず勝たねばならないのだから。
「お前だけは……刺し違えてでも殺す!」
ソレイユは大きく見開らいた眼球でダミアンを睨み付けると、剣を支えに立ち上がろうとした。しかし──
「へえ、どうやって?」
ダミアンがその足でソレイユが支えとした剣を蹴りあげる。
当然支えを失ったソレイユは顔から地面へと倒れ込んだ。
「ハッハー! ねえ、どうやって!?」
それでもソレイユのギラギラした眼球はまだその光を消してはいない。
「簡単だ、それ……がはっ」
だがダミアンへの言葉はその途中で、大量の血となり変わって口から吐き出されてしまう。
瘴気の毒は無情にもソレイユの身体を確実に侵していたのであった。
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