第20話 寺田屋事件の夜

 4月23日の夜。

 長州藩邸の広間では、土方と久坂が花札に興じていた。

 土方はさすがに遊び上手ということあって、この手の博打ものでは長州藩の面々よりも強い。ただ、久坂を含めてここには若くて血気盛んな者が多い。負けるとよりムキになって挑むから、延々と勝負がつかないことになる。

 私は適当なところで切り上げて、寝ようと思っていたら、急に入り口が騒々しくなった。

「大変です! 寺田屋で斬りあいが行われています!」

 若い下級藩士の杉山松助すぎやま しょうすけが叫びながら飛び込んできた。


 西郷が忠告に来て以降、桂や久坂の指示で「寺田屋に入るな」という厳命が下されていた。

 とはいえ、そこで何かが起こるかもしれないと思えば気になるのが人情である。常に一人くらいは寺田屋付近をうろつき、偵察するという日々が続いていた。

 この時間帯は杉山が監視していて、そこに騒動が起きたということだろう。


「土方先生! 勝負はお預けです! 様子を見に行くぞ!」

 久坂が立ち上がり、数人の者とともに慌ただしく玄関へと駆けだしていく。

「おい、お預けはともかく、勝った分は払えよ」

 全員出払った後、土方が玄関の方に声をかけるが、おそらく無理な相談だろう。薩摩藩同士の斬りあいが起きたなどという事態を前にすれば、それまでの花札の結果などころっと忘れてしまうはずだ。

「全く……、わざわざ俺が勝っている時に事を起こさなくても良いのに」

 当の土方自身も勝ちを逃したと思ったようで、やれやれと立ち上がる。

「一太、どうするんだ? 様子を見に行くか?」

「いえ、寺田屋で何が起きているかは大きな問題ではありません」

「うん? だけど、この前の西郷って奴の態度を見ると、今、寺田屋では薩摩の殿様と、薩摩の尊王攘夷派が斬りあっているんじゃねえのか?」

「そうですが、斬りあいになれば殿様の方が負けるはずがありません」

「あぁ、まあ、それはそうだな。わざわざ見に行かなくてもいいってことか」

 土方も納得したようで、腕組みをしてウンウンと頷いた。


「問題は、島津の殿様がこの後どうするか、ということです」

「どうするんだ?」

「尊王攘夷派と斬りあっている、ということは、島津の殿様には尊王攘夷は頭になく、公武合体運動に動くつもりでしょう。ただし、薩摩から京都まで来たのですから、島津公は自分で政局を動かしたいと思っているはず」

「ということは、朝廷にかけあって幕府と交渉する許可を貰う。島津の殿様が老中、あるいは上様と話をするってことか。そうなれば『島津の殿様は凄いねぇ。薩摩から出てきて、朝廷とも幕府とも話をしてしまったよ』ということになるわけだ」

「そうなると島津にとってはいいですね」

「確かになぁ。前田の殿様は加賀では凄いんだろうけれど、全然外に出てこないからなぁ。今回、島津の殿様が江戸まで来れば薩摩は凄いってみんな思うだろうな。でも、島津の殿様は結局何をやるんだ?」

「それは……」

 非常に答えづらい質問である。

 公武合体を踏まえたうえでの攘夷活動ということになるわけだが、これが実行に移されることはない。

 何故なら、島津久光は江戸からの帰りに往来の邪魔をしたイギリス人を横浜・生麦で斬り殺してしまい、イギリスの怒りを買うことになるからだ。

 これによって薩英戦争が行われ、その過程で島津家の者達は「外国に勝つのは不可能だ」ということに気づくことになる。

 島津久光が描いた公武合体というものは、薩摩では何ら実現に向けて動き出すこともないまま、ぽしゃってしまうことになる。


 そして、この事実が私に重い課題を投げつけてくることになる。

 私は、この世界でイギリス大使館と非常に良好な関係を築いている。

 従って、「薩摩の殿様が来ている間、慎重に動くように」と助言をすれば、生麦事件を避けることができる。そうすれば、知人の知人などが殺されるという事態を避けることができる。


 ただ、この場合、薩英戦争は起こらない。

 島津久光は自身が描いた公武合体にのっとった活動をすることになるだろう。おそらく失敗するはずだが、そこから先の日本がどうなるかというのは全く見えない。個人的にはこの事態になった場合、トータルの犠牲者などはより増えるのではないかという気がしている。


 私はどうすべきなのか。倫理に従い、生麦事件を避けるべきか、利害計算から、そのまま引き起こすべきなのか。


 島津久光はこれから朝廷に向かい、勅許を得ることになるだろう。それから江戸に向かい、将軍や老中たちと会うはずだ。


 その後、久光が薩摩に戻るまでの間に、結論を出さなければならない。

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