第8話 燐介、サンフランシスコで観劇する②
生唾を飲み込んだ。
蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのことだろう。
俺は、今、劇場の個室の中で、ジュニウス・ブースとエドウィン・ブースの二人に囲まれている。
この二人の名前はもしや……
そう思っていると。
「イギリスで、弟が大変なことをしでかしたらしい。兄として深くお詫びさせていただきたい」
おや?
エドウィンが俺に頭を下げてきた。ジュニウスも続く。
「やっぱり、あのジョン・ブースの……?」
俺が尋ねると、二人は無言のまま頷いた。
ここから年上らしいジュニウスが、エドウィンを制して話の主導権を取る。
「私と、ここにいるエドウィンも俳優で、ね。特にエドウィンは『天才』と呼ばれるほどの俳優だ」
「へぇ……」
兄の評価に、エドウィンは「そんなんじゃないですよ」とむくれたような顔をしている。ただ、兄は本当にそう思っているようだ。
「それがどうやらジョンには重荷になっていたようだ。私が見るところジョンも決して悪い演者ではない。むしろ優秀な部類なのだが、如何せん比較される相手がエドウィンというのは気の毒な話だ」
「ジョンは兄のプレッシャーに押しつぶされていた、と?」
俺の問いかけにジュニウスが頷く。
俺にはこの当時のアメリカの俳優知識は全く無い。
だから、ジュニウスが言っていることが本当なのか、贔屓目が入っているのか分からない。
ただ、身近な相手と比べられて苦悩するということは分かる。現代日本にだってそういう話はいくらでもあるし、スター選手と比較されて苦労したアスリートも大勢いるはずだ。
再びジュニウスが話を始める。
「ジョンに異変を感じるようになったのは、一年ほど前かな。その頃から、彼は異様に役にはまり込むようになった。俳優だから役に入り込むのは当たり前だ。だが、彼ははまり込むようになったのだ。極端なまでに模倣しようとするようになった」
「俳優っていうのはそういうものじゃないと思うんだけどね。自分の視野を広げて、その中から役の本質を自分なりに掴んで、それを演じ切るものだ。なのにジョンは自分を出さずに、ひたすらその役の事跡だけを追い求めるようになってしまったんだ」
「ふーん」
「我々はシェイクスピアの劇がほとんどなのだが、ジョンはジュリウス・シーザーやアントニウスといった英雄にはまりこむようになった。いつしか、ジョンは自分が現代のローマ帝国たるアメリカを救わなければならないと思うようになってしまったようだ」
ジュニウスが溜息をついた。エドウィンがつけくわえる。
「もちろん、ジョンなりの解釈で、だね。ある日、彼は『ローマを救うべく行動する』と言って出て行った。部屋に残された新聞には君のことが書いてあって、そこにナイフが刺されてあった」
「それで、俺を狙いに行ったのだと思ったわけか?」
二人は頷いた。
新聞記事にナイフが刺してあったら、それはまあ、そう思うよなあ。
というか、部屋に家族がナイフ突き立てた新聞があるって、結構ホラーだよな。
しばらくの沈黙。
この二人の言うことが本当なら、ジョンは身近な存在にコンプレックスを抱いて違う方向に逃避してしまい、その中から俺という適当なターゲットを選んで行動に移ったことになる。
現代日本で言うなら、マンガの主人公になりきって、街を歩く一般人を悪人とでも思ったというパターンだろうか。
全くない話、とは言えない。
「ジョンがイギリスで逮捕されたらしいという話が伝わってきた。死刑になるかもしれないと言われたけれども、僕達にはどうしようもない。今後どうしようかと思っていたんだよ」
「今後のこと?」
「君のこととジョンのことを差し置いても、今は戦時中だ。ここは平和だが、少し離れた場所では同じアメリカ市民同士が凄惨な戦闘を繰り広げている。そんな中で僕達が俳優のような仕事を続けていくべきものなのかどうか」
あぁ、確かにそういう話はよくあるな。
災害などが起こると「こんな時に楽しんでいていいのか、不謹慎だ」みたいな意見がよく出てくる。戦時中ともなると「そんな心構えで敵に勝てると思うのか」となってしまうのだろう。
ただ。
「……むしろ俳優を続けるべきじゃないかな?」
「そうだろうか?」
「戦場なんて凄惨な状況だからこそ、それでもこの世界は楽しいと思わせるものが必要だと思う。スポーツにしろ、演劇にしろ、楽しいと思わせるものが。戦場しかない世界なんて、あまりにも悲しい世界だと俺は思う」
「……そうかもしれないね。考えてみるよ」
二人はそう言って、またしばらく無言になる。
加害者兄弟の苦悩、
戦時中の文化人の苦悩、
二人の重苦しい沈黙は、ジョンの時とは違う意味で、俺の精神に重圧をかけてきていた。
注:ジョンの兄エドウィン・ブースは、リンカーンの息子を汽車接触から救ったことがあり、弟がリンカーンを暗殺した際にはショックのあまり俳優業を引退しようとしたと言われています。
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