第5話 一太、井伊直弼と相対する
「しかし、山口よ。一体どうしたというのだ?」
一段落した後、松陰先生が尋ねてきた。嶋崎や永倉も同調する。
「確かに珍妙だ。突然、変なことを口走って、こいつの名前とか言い当てたわけだしな」
「私もさっぱり分からないのですが……」
水戸のことはおぼろげながら知っていたが、堀江や信田なる者のことなど聞いたこともない。そんな名前がどうして自分の口から出てきたのか、不思議でならない。
「燐介も妙な男だったが……」
嶋崎の問いかけに松陰先生も頷いている。
「そういえば、燐介は以前から山口を知っている風ではあったな」
「勘弁してくださいよ。私は全然知りませんから」
確かに燐介は私のことを知っている風であった。しかし、私は彼のことなど全く記憶にない。あれだけ変わった奴なら、絶対記憶に残っているはずだ。
「ふうむ……、奇怪なことよ」
首を傾げる松陰先生だが、それ以上の追及はなかった。
翌日、江戸につくまでに残る二人の水戸浪士も我々に降ってきた。
松陰先生と嶋崎はここでも、大事にはせず、試衛館で引き取ることで決着がついた。
年末、我々は品川宿を経て、江戸へとついた。
嶋崎は水戸の二人を連れて試衛館へと戻り、沖田林太郎は、総司の家族宛の手紙を持って白河屋敷へと向かった。
私と松陰先生はというと、アメリカ大使タウンゼント・ハリスの知遇を得ている。江戸城からの迎えが来て、登城の要請を受けた。
「もう日暮れが近いし、明日でよろしいのではないか?」
と回答するも、今すぐ来るようにという指示である。
「やれやれ、幕閣の方々は余程アメリカのことを知りたいらしい」
ぼやく松陰先生とともに江戸城へと向かった。
江戸城に登城した私達は、御用部屋に案内された。
極秘事項などを話す際に使われる部屋で、最大の極秘事項ともなると灰の上で筆談することもあるという。
「今日はそこまでは行かない予定でございます」
案内役がそう言って、襖を開けた。
そこにいかめしい顔つきの風格のある男が座っていた。
私も松陰先生も相手を確認して、どちらともなく顔を見合わせた。
顔に面識があるわけではない。しかし、男の服装と持ち物から井伊家の者であることが分かる。
江戸城の御用部屋に出入りができる者となれば、当然、井伊直弼ということになる。
開国派の重鎮として井伊直弼がいるということは分かっていたが、江戸城の御用部屋にいるとなるとより重みを増す。
譜代筆頭・井伊家の当主が老中になることはない。井伊家の者が江戸城で重責を果たす場合、それは大老であると決まっている。
(井伊直弼が大老になる……)
そうした話はまだ出ていないが、おそらく既定路線なのであろう。
「井伊
重々しい様子で、直弼が名乗った。
「吉田
松陰先生が
「山口一太でございます」
私も松陰先生に続いて平伏する。
「遠くアメリカまで行っていたとか。ご苦労だった」
「……ははっ」
少しの間があったのは、「幕府のために行っていたわけではない」という思いがあったのだろう。直弼も小さく眉を動かしたが、深入りすることはない。
「手前どもは下田にて、タウンゼント・ハリスから書状を預かってきております」
松陰先生が手紙を取り出したが、直弼は「不要」とばかりに右手で制する。
「用件は分かっている。江戸に来たい、というものであろう」
「はい」
「もちろん、いずれ来てもらわなければならないのは分かっている。だが、現在は水戸を始めとした尊王攘夷の輩が多数
「……左様でございますな」
どうやら、アヘン戦争やアロー事件のことは知っているようだった。
「……一年ほどで何とか水戸の奴らを抑える。それまでは面倒でも下田と江戸とで交渉をしたいと伝えてくれい」
「承知いたしました」
「よろしく頼む」
井伊直弼との面会はそれで終わった。
城を出ると、松陰先生が呆れたような溜息をついた。
「井伊様は
「左様でございますか?」
「信田や堀江達を見たであろう? 彼らも含めた多くの尊王攘夷を唱える者は、現実というものを分かっていないだけであって、分かればいかようにでも変えることができる。それを井伊様は端から潰すことしか考えておらん」
「……確かに。水戸徳川家と開国論を巡って争っていると言いますし、その対立意識が強いのかもしれませんね」
「今の日本は相争っている場合ではないというのに……。まあ、言っても栓無きことであるか」
松陰先生はそう言って、すぐに考えを切り替える。
「手前は明日にでも毛利様の上屋敷に向かい、萩に帰る手続をとりたい。山口には嶋崎殿や永倉殿と共に下田に行ってもらい、タウンゼント・ハリスに首尾を説明してほしい」
「それは私だけで大丈夫でしょうか?」
行って説明することだけならできる。
しかし、ハリスがそれだけで満足するとは到底思えない。「是が非でも行かせよ」とより強い圧力をかけてくることが容易に想像できる。そうしたややこしい交渉となった時に、私一人でできるのかどうか、正直不安だ。
「大丈夫だろう。むしろ手前が見るに、手前を抜きで、山口一人で進めるべきかもしれない」
「私一人で、ですか?」
「そうだ」
松陰先生が力強く答える。
そこまで言われると、私も「分かりました」と答えるしかなかった。
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