第4話 thir(s)ty
家での和寿妃は結構だらしない。
寝巻にしている和服を、おはしょりなしの
「おかえり」
「……ただいま」
畳も散らかしている。
予備校のテキストと、教科書、将棋盤に、なぜか土産物でよく見かける動物を模した小さなガラス細工まで転がっていた。
玄関まで挨拶に来た熊倉を、声だけで「お疲れー」と追い払った本体がこれだ。忍は仕えている熊倉が少し気の毒になった。
怒る人がいないのだから、無理もないのだが。
両親は仕事に出ずっぱりで、兄二人とは別居している。
よく世話してくれていた祖母も施設に入ってしまった。
家政婦さんも、料理する人やら掃除する人やら、毎日複数人が出入りしてはいるようなのだが、特別なことがなければ夜になれば帰ってしまう。
「さっきパパが一瞬帰ってきて、また出てったよ。仕事先からめっちゃリンゴもらったみたい。早く食べないと傷んじゃうかも」
「……持って来いって言ってんのか?」
「よくわかったねえ!」
口にせんべいのカスを付けながら、小さな海賊みたいにケラケラ笑っている。
忍は肩をすくめて、茶の間を出た。
廊下のラックに、脱いだコートを掛けてから厨房に入る。
かつては使用人が賄いを使うために使っていた部屋なのだろう。
優に二十人は座れそうな長テーブルの上に、リンゴの大きな箱があった。
「……うわ」
それが段ボールではなくて、熨斗のかかった白木の箱で、忍は軽くひいた。
よそ者が開けていいものではないだろうに。
少し茶の間を振り返ったが、和寿妃のあの様子を思い出すに、来るとも思えない。
仕方なく、おそるおそる箱を開けると、甘酸っぱい香りが一斉に立ち上る。
超・大玉。十五個入り。
モールドの上に、ネットを嵌めたものを、ふわっと半透明の花紙で包んでいる。
比喩ではなく、宝石のようきらきらと光って見えた。
「…………」
忍が居酒屋でキッチンバイトをしているのは、時給が良くて人と会話せずに済むからだ。父との二人暮らしで取り立てて自炊をするわけでもなし、スーパーに行ったところでリンゴの値段がどうとか、品質がどうとか、知るわけがない。
それはそれとして。
本当に自分が、包丁を入れていいような代物なのかと、ためらわれる。
「あー、忍くん。やっぱりストーブ点けてない。寒いでしょうが」
裸足で追いかけてきた和寿妃は、そのリンゴをひとつ手に取ると、その丁寧な包装をビリビリと豪快に開けてしまう。
そのまま洗いもせずに、丸のまま齧る。
「美味しい! はい、忍くんもどうぞ」
「いや……剥きます。ちゃんと剥くから、ちょっと待て」
ぐいぐい頬に押し付けられる食べかけを、忍は一度手に取り、ため息をついた。
まな板と包丁を出す忍の背中に、和寿妃はべったりくっついてくる。
「……なんだよ。危ないだろ」
「ただの安全確認だよ」
腰に腕を回されていた。
忍の手元が高級リンゴに集中しているのをいいことに、うなじにぐりぐりとつむじを押し付けてくる。
「別に大丈夫だったんでしょ?」
「……うん」
「熊倉に変なことされてないよね」
「いや、なんでだよ。ありえないだろ」
「なんかタバコのにおいするんだけど」
「はぁ……? ああ……」
ショッピングセンターに入って、喫煙所の灰皿で写真を焼いたのだ。
折りたたんだものをライターで炙ると、ぶすぶすと音を立てて燃える。
燃えカスになるまで見守る間、熊倉は退屈そうにタバコを咥えていた。
和寿妃が絡みさえしなければ本当に無害な男なのだが、強面の彼が無表情でそうしていると良い人除けになる。
おかげで事が終わるまで喫煙所には誰も近寄ってこなかった。
「……いや」
疑うように見上げてくる和寿妃に忍は言った。
「別に。何も、なかったけど」
「ウソつくの下手だねえ。忍くん」
「……いや、本当に。熊倉さんは何も悪いことはしていない。ちょっと喫煙所で話す用事があっただけ」
「ふうん。まあ、いいけど」
はあ、と付いたため息が肌に触れて、忍は身じろぎをした。
忍の手元で、剥いたりんごの皮は全くつながらずにブツブツと千切れている。
集中できないのだ。
和寿妃の体が背中を押しつぶすくらいに密着してくるから。
ふと、獅子戸の言葉が思い出された。
『自分以外の女に欲情しない男って貴重じゃんね』
和寿妃にだって別に欲情してない、と、忍はその声を振り払おうとする。
和服の前が多少はだけていようが、素足が絡みついてきていようが、別に。
そう思っていると、へそのあたりにあったはずの腕が、なぜか胸にまで上ってきていて、忍はさすがに声を上げた。
「和寿妃、皿をくれ。剥けたから」
「そのままでいいよ」
「はあ……?」
「和寿妃の口に入れて」
その言い方を、やけに挑発的と感じるのは、忍が悪いのだろうか。
「早く」
和寿妃は、スルリと忍の横に来た。
流しによりかかるように形の良い唇を開く。
口が大きいのだ。だから歯が多く見える。
居候が、こんなことで主人に歯向かう理由がない。
忍が差し出すと、サメが獲物を屠るように大きく齧り取った。
自分の手を汚さないまま、さくさくとこの上なく品の良い音を立てて咀嚼する。
一息に嚥下すると「忍くんも食べて。とっても美味しいよ」と微笑した。
その、甘く絡みついてくるような視線から、逃れたい。
うつむけば、手の中に、和寿妃の食いさしがある。
「ん? 食べ方わかんなくなっちゃった?」
和寿妃はいかにも優しそうに首をかしげた。
「じゃあ和寿妃が教えてあげるね」
「……和寿妃、あの、これは」
「さあ忍くん、お口を開けてください」
和寿妃が口を開けろと言うので、忍は二の句を告げなくなる。
「もっと。そんなに小さいお口じゃ入らないよ。別に、恥ずかしくないでしょ。忍くんはリンゴを食べるだけなんだから」
「ふぁ…………」
「あら、声が出ちゃうの。今は我慢できるかな。蜜がいっぱいで、気管に入ったら苦しいよ」
大きく開いた口を閉じさせてもらえないから、唾液がやたらと沸いてくる。
なんでこんな当たり前のことを恥ずかしく感じるのか、忍はわからない。
おそらくは和寿妃の声のせいだ。
優しく諭すように言われると、子供に戻らされるような気がするのだが、反応してしまうのは大人の部分なので、何かもどかしく、催眠にでもかけられているような気がしてくる。
「お口に入れてごらん」
大きい。和寿妃に半分以上食われて、まだ入らない。
でも、和寿妃は噛めと言わないから。
忍は手で押し込むように口に入れた。
甘さと混ざった唾液が手の中から溢れてくる。
「ん、う」
噎せ返るような甘さに、視界が歪む。
和寿妃が見ていた。
幼い子供にそうするような思いやりにあふれた手つきで、顎から垂れ落ちた雫を受け止める。
「いいよ。噛んで。三十回」
歯を動かす。
噛み砕くほどに和寿妃の目つきがどんどん優しくなって、気が変になりそうだ。
「口の中で、唾液とよーく混ぜ合わせるの。甘いでしょう。しっかり味わって」
痛いほど動悸がしているのに、味なんてわかるわけがない。
喉が自然に動こうとするたびに、首がひきつる。
口の中でリンゴの繊維が崩れて、ドロドロになっているのに、まだ飲んでいいと言われていなかった。
恥ずかしくてたまらないのに、この理不尽な命令に従ってしまう。
「飲んで」
背筋を震わせるようにして、忍は飲み干した。
潤うほど、ひどく乾いて、二度三度と喉を使ってしまう。
「えへへー!」
ふらついて流しに縋るようになっている忍の脇から、和寿妃はまた一切れ取って咥えた。小気味のいい音を立ててかじる。
「美味しいよね! お客様用だから、いっぱい食べてね」
「……和寿妃」
やっとのことで出した声は、かなり低くなっていた。
手を洗っていいか聞くと、和寿妃は喜んで蛇口を開けてくれた。
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