第3話 地獄について私たちが知ることは少ない

 亀井に買い物袋を託して、車に自転車を積んだ。

 運転しながら「なんだ、友達いるんじゃん」などと言う熊倉に、忍は「そういうのではないです」と訂正した。


 亀井は教室に行くほどの元気はまだないらしい。

 保健室登校という体で放課後に来てみたのだと言っていた。

 忍にとっては渡りに船だったが、獅子戸のこともある。

 気まずいといえば、気まずい。


 とはいえ、向こうは教室に戻るきっかけがほしかったようだ。

 亀井は自分から買い物袋を持っていくと言ってくれた。


『そうか、ありがとう。助かった……』


 忍が礼を言うと、いつもの何を考えているかよくわからない顔で『バーカ』と罵ってくる。

 背後で熊倉が肩を鳴らすのを聞いた忍は、気が気ではない。

 暴れられる前に話を切り上げようとする忍に、亀井は言った。


『こっちのセリフなんだよ』


 忍は瞬きのあと、首をひねってみせる。

 なんのことかわからない風を装っていたほうが良いような気がした。

 そしてその感覚は亀井にも通じたようだ。

 困ったように頭を掻いただけで、もう何も言わなかった。


「なんだかんだ言ってモテてるな。忍」

「なんでそんな話になる……」


 熊倉は言葉が足らないというか、思考がトんでいるところがある。和寿妃なら汲み取れるのだろうが、忍はたまについていけなくなる。


「……あの、すいません、熊倉さん」

「はい。なんスか」


 今度は助手席に座っていた。

 改まった忍の口調に、熊倉もとぼけたように合わせてくる。


「帰る前に、ちょっと買い物に寄ってもらってもいいですか」

「うん、いいよ」


 熊倉は二つ返事をしてから、ハッとした顔になって「おまえ、お嬢様じゃあるまいし、俺を撒けると思うなよ」と念を押してくる。

 和寿妃は、こんな大男に対して、いつもそんなことをしているらしい。


「いや、普通に買い物したいだけです」

「本当だろうな。なに買うんだよ」

「その……和寿妃の誕生日が近いので……」


 正直に言うべきではなかった。

 そこからテンションの上がった熊倉がアクセルをベタ踏みしはじめて、忍はドアに張り付いたガムみたいに平たくならなければならなかった。


 奇跡的に生きて車を降りることができ、いくつか用事を済ませてから帰宅する。

 熊倉は、忍を連れている間ずっと気を張っていたらしい。

 エンジンを切るや否や、肺いっぱいのため息をついた。


「忍さあ」


 車の後ろに積んだ自転車をごそごそと下ろしながら、熊倉は言った。


「あんまり和寿妃お嬢様を振り回してんじゃねえぞ」

「……俺が、和寿妃を、ですか」

「他に誰がいるんだよ」


 どう考えても逆だろうと思って聞き返したのだが、熊倉はうんざりしたようにうなずいた。

 肩に軽々とかついだ自転車を道に下ろしもしないまま、車に鍵をかける。


「おまえが悪いことを裁かないのは勝手だけど、お嬢様は立場的にそういうわけにいかないんだよ。俺まで兵隊役に駆り出して、今回が本気でギリギリって感じ」

「はあ……」

「つーか俺はおまえのことが心配なんだけど」

「…………えぇ?」


 熊倉の言い方がよくないのか、自分の理解力が低いのか、忍は彼の言わんとすることが今ひとつ掴めなかった。

 なにかもどかしそうに熊倉は忍は見下ろして、眉間にしわを寄せる。


「悪い。ちょっとキモいこと聞いていいですかね」

「え」

「和寿妃お嬢様とおまえって、ヤッてんの?」

「ヤッ……」

「あ? 通じないか? 子供作るような真似してないんだよな?」


 忍は確信した。

 どう考えても、道端でこんなことを急に聞いてくる熊倉の方に問題がある。

 悪いと思っているなら聞くなと思った。


 忍は夜道で赤くなりながら、熊倉がその質問を引っ込めてくれるのを待つ。

 だが、悲しいことにその気配がまったくない。

 これだから人間は嫌なんだと、忍はつくづく思う。

 人のことを、そんな身勝手な妄想に重ね合わせて見られても困る。


「……その……何かが、仮に、あったとして、いや、なかったにしても」


 忍はうつむいていた。

 熊倉の革靴の先を凝視しながらも掠れた声を吐き続ける。


「熊倉さんの……態度とか仕事に。影響があったりとか、するんですか……」

「うん」

「え……」

「だってもし何か間違いがあったら、おまえを殺して山に埋めろとか言われるのは、たぶん俺だし」


 言葉を失う忍を、熊倉は不思議そうに見つめ返した。


「なにをそんなに驚いてんだよ。大柴家の妹君に手を出して火傷で済むわけないだろ」

「和寿妃の……兄貴が怒るってことですか」

「いや怒るとかそういう問題じゃなくて。消される。普通に」


 思い浮かべるように、視線を斜め上に浮かべながら続けた。


「けどおまえを殺したら、和寿妃お嬢様はきっと俺を責めると思うんだ。そしたら、俺も責任とって死ぬことになるよな。そりゃ、そういう仕事なんだから」


 和寿妃の言うことを聞くのが仕事。

 確かに自分でそう言っていたが、その意味の重さに忍はついていけなかった。


「そうなったら、和寿妃お嬢様の言うことを聞く人間がいなくなっちゃうだろ」


 死んでまで、最優先事項は和寿妃か。


 その芯のブレなさが怖くて仕方がないのに、忍は妙に可笑しくて、少し笑った。

 熊倉の表情は変わらない。

 雇われているとはいえ、この男も大柴家の人間なのだと忍は思った。


 ただ、一つの答えを言わせようとでもするように「だから、ヤッてないんだよな?」と尋ねられて、忍は頭を下げるようにうなずいた。


「はい……」

「ああ、そう! よかったー。そうだよな、忍はいい子だもんなー」


 一気に相好を崩して、熊倉は忍の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜた。

 その『いい子』とやらでなくなった瞬間に、この握力で頭蓋を潰されるのかと思うと、膝が少し震える。

 ぺし、とおまけのように忍の額に掌底を食らわせ、熊倉は大柴家の門を開けた。


「まあ大抵のことは、俺がなんとかしてやるから安心しろよな。奥様も考えがあっておまえを住まわせているんだと思うし」

「そう、ですかね……」

「うん。商売上手な方だからなあ。家の損になるようなことはしないよ」


 庭の池を横目に見るようにして砂利の敷かれた道を通る。

 納屋の前に来ると、自転車をひさしの下に押し込んだ。


「これでよしと。お嬢様は、もうお帰りになってますかね」


 熊倉は挨拶して帰るつもりのようだ。

 隣りの市にかかる山の近くに、イチゴ農家の実家があると聞いたことがあった。


「熊倉さん」

「はい?」


 池の脇で立ち止まる忍を、熊倉は振り返る。

 いわゆる池泉回遊式と呼ばれる、池を中心とした作りの、趣きのある日本庭園だ。

 白妙とはここで出会った。

 和寿妃は驚いて転び、忍は心を奪われた。

 同じ場所で、忍は熊倉に頼んだ。


「俺がもし、和寿妃に子供を産ませるような真似をしたら、俺をちゃんと殺してくださいね」


 熊倉にとっては少し複雑なセリフだったようだ。

 何か変な顔をしている。

 同じことをもう一度、噛んで含めるように繰り返すと、彼は何か考え込むように腕を組んで「ああ、まあ……」とうなずいた。


「言ってることはわかるけど、なんか逆にケンカ売られてんのかと思った。おまえさあ、あんまり怖いこと言うのやめろよ」


 脇を急に吹き抜けた冷たい風が、小さな池にいくつもの波紋を立てる。


「だって、忍が自分からそれを言ったら、なんか俺に殺されてやるからお嬢様を抱かせろって意味に聞こえるし」


 熊倉はつかつかと忍に歩み寄ると、うすい背中をはたくように乱暴に押した。

 力で敵うわけがない。

 ふらついて膝に手をつく忍に、熊倉は顎で前を指した。

 ボディガードもしているせいか、人の後ろを歩きたがるところがある。

 忍に前を歩かせながら、熊倉はぶつぶつとぼやき続けた。


「俺だって忍のことは気に入ってるんだから、そんな気持ち悪いことを約束させようとするなって話なんだよ。まったく」

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