4:二年二組のイエティ探し編

第1話 on your mark.

「ええ、ええ、捕まえましたよ。忍? はい、もちろん無事です、当たり前でしょう。あのねえ、俺が和寿妃お嬢様の言いつけを守れなかったこととか、これまでありました? もう無力化してます。いや別に、ちょっとも危ないことなんてなかったっすよ。ハイ。ハイ」


 通りに面した喫茶店の前で、熊倉は電話をしていた。

 羽織ったジャンパーをシャカシャカと慣らしながら煙草を咥える。

 ガラス越しに、店内にいる忍を横目で確認した。


「今もちゃんと見てます。あともう無事に連れて帰ったらいいんでしょう? ええ? …………それはちょっと…………だって、俺が奥様に怒られちゃうじゃないですか……いや、和寿妃お嬢様のために怒られるのは、確かに役得ではありますね……! そうかあ、じゃあいっか! ハイ、わかりました! 了解です!」


 忍も同じように、ガラス越しの熊倉を見ていた。

 タバコを咥えながら、焦った顔をしたかと思うと、急に嬉しそうにニコニコしはじめる。

 会話を聞かなくても、また何か無茶を聞かされているのだろうと察しがついて、忍はため息をついた。

 良くも悪くも主人に従順すぎる男なのだ。

 一回りも年上の男にああも甲斐甲斐しく仕えられては、和寿妃が増長するのも仕方ないだろう。


「……あれ、誰なの?」

「和寿妃の家の……」


 忍は言葉に詰まった。

 熊倉が、大柴家でカバーする職域は広い。

 便利屋、用心棒、召使い、等、様々な単語が脳裏をよぎる。

 だが結局は肩をすくめ、小学生の頃にはじめて会った時の彼の役職を告げた。


「庭師」

「にわし?」

「庭の……植木の世話したりとかする人」


 庭に侵入したヘビを保護して、動物園に送る手はずを整えたこともある。


 前に座った獅子戸は、忍の言葉に「はっ」と力が抜けたように笑った。


「庭師ね。大柴って本気で金持ちなんだ」

「……ああ」


 歩道橋で捕まえられてから、やっと少し落ち着いたようだ。

 あの後、陰湿さを徐々にヒートアップさせていく小鹿の説教に耐えかねて、獅子戸はついに人目もはばからず、わんわん泣き出してしまった。

 収集がつかなくなったため、急遽、近くのコーヒーショップまで移動せざるを得なくなった。落ち着かせて事情を聞き出すためでもある。


 小鹿も、頭を冷やしたかったのだろう。注文のために席を外していた。

 混んでいる店で、やっと座れたのだ。戻ってくるまではまだかかるだろう。

 忍は頭を掻いて、だが、単刀直入に尋ねた。


「おまえがイエティなのか?」


 掲示板にウソの書き込みをして、教室を荒らし、窓から花瓶を落下させた犯人。

 貉は、両腕を折られたとも匂わせていた。


 獅子戸は、泣き腫らして虚ろになった目を細める。

 忍はその反応を見て、「やっぱり、違うんだな」と嘆息した。


「わかんない。イエティって、なに? あだ名かなにか?」

「ハンドルネーム。和寿妃がずっと探してる」


 ざわめきに満ちた店内で、忍は苦しげに肩を落とす。


「おまえを脅したのも、多分そいつだと思う」

「……なんで」


 

 息を飲むように見つめられ、忍は膝に目を落としたまま答える。


「これまでと同じやり口だろうと思った」


 両腕を折られた、と言う貉の言葉の真偽はわからない。

 だが、もしそれが本当なのだとしたら、実行犯の鬼頭を陰で操っていた人物が存在することになる。


 和寿妃の噂を掲示板に書き込むのも同じだ。

 イエティは直接的には何もしていない。

 噂に踊らされた周辺人物が猿渡を煽り立てただけなのだから。


 そして、立て続けに起きた教室荒らしと、花瓶の落下事件。

 実行犯と、首謀者は別にいる。そう考えることは自然だった。

 その上、獅子戸のこの手ぬるさだ。

 人の腕を折ったとか折らないとか言われている犯人が、小鹿の説教くらいで大泣きするほうが違和感がある。


「……私だってわかったのは、なんで」

「おまえじゃないのか? 教室荒らしと、花瓶」

「私だけど、だって」


 忍はできることなら話したくなかった。


 ちらと視線を上げれば、目の前の小さなテーブルに、さも重そうに載せられた獅子戸の豊かな胸がある。


 亀井はおそらく、教室を荒らしたのが獅子戸であることに気がついていたのだろう。

 重度の筋肉女子好きである亀井が、彼のお気に入りランキング一位であるところの彼女が持久走で悶え苦しむさまを視姦しようとしない方がおかしい。

 すぐに、獅子戸が姿をくらましていることに気づいたはずだ。

 であれば、あの突然の奇行にも説明がつく。


 クラスの雰囲気に耐えかねたこともあるかもしれないが、何よりも獅子戸を庇いたかったのだろう。


 宇佐美がそれに気づいていたかどうかまでは、忍の関知するところではない。

 陽キャ二人の友情如何に言及するのはなおのこと藪蛇というものだろう。何しろ忍には友達がいないのだから。


「持久走の記録とかいうのが関係あったってこと?」

「……ない。おまえもそれで抜けられたんだから、覚えてるだろう」


 忍はうんざりと窓の外に視線を移す。

 熊倉は変わらずこちらを監視している。

 中に入ればと忍が手招きしたのを挨拶と思ったらしく、笑顔で手を振り返して来た。和寿妃と行動している時はいつも店の前で待機させられているのだろう。

 哀しいような忠犬ぶりだった。


「和寿妃は人数的に男子に三人組ができるのを気にしていた。でも三人組なんて元からなかったんだ」


 昼休みを奪ったことでクラス中の顰蹙を買った宇佐美のペアを担当したのは、体育教師の鵜飼だった。


 実際、忍が確認した持久走の記録はひどいものだった。

 あの時間、クラスのほとんどが宇佐美に注意を向けていて、正確な記録をつけていたのは和寿妃を含めてもせいぜい数人だ。

 多くは前回の記録を丸ごと書き写したり、違和感がない程度に秒数を修正したりして提出している。


 忍もそのうちの一人で、ペアを組んだはずの鳳から白紙の記録を渡されたのだ。

 自分で記録を捏造せざるを得なかった。


「まあ、でも、女子の誰かのような気はした」

「……なんで」

「ペンキを落とさなきゃならないだろう」


 ハケもなしにあれだけ派手に撒き散らして、手が汚れたらどうするという話だ。

 体育の途中で抜けたのだから、汚れた体操着はトイレででも着替えれば良いだろうが、肌に付けば化粧品で落とさなければならない。


 クレンジングオイルを貸してくれた女子の有志の中には獅子戸もいたのだ。


「決定的なのは花瓶だ。前日の放課後にずっと人がいたのに、いつ仕掛けるんだよ。朝か? 外から丸見えで、いつ他のやつが登校してくるかもわからないのに」

「…………」

「次の日は一時間目から昼休みまで教室で座学だ。じゃあ、前日の掃除の時だろう」


 現実的に考えて、天窓に触れて最も違和感がないのは、掃除中の人間だ。

 下着を覗かれたら嫌だとでも言って、カーテンの後ろに隠れてしまえば花瓶を持っていても余計な疑いを持たれない。


 身長からして、女子の中で天窓を開ける役になるのは獅子戸だ。

 そして、本来であれば当日に天窓を開けるのも彼女だった。

 タイミングを見計らえば、花瓶が落ちても人にケガをさせずに済む。

 掃除の時間に前日と同じように立ち回ろうとした。それだけのことだ。


 だが。


「猿渡が代わるって言ってくれたんだよ。そんなの断れないじゃん」


 やだやだと冗談めかしてカーテンを引こうとする獅子戸に、そんなこと言われるくらいなら代わってやると猿渡がキレたらしい。

 

 目に浮かぶようだった。


「それでもう、言い出せなくなっちゃった」


 獅子戸の、メイクの剥げ落ちた目に、見る見るうちに黒い真珠のような涙が盛り上がる。


「だって、猿渡が人殺し呼ばわりされたの、ぜんぶ私のせいなんだよ。ありえないでしょ……! バレたらもう絶対に許してもらえない。そんなの、耐えられないと思った」


「……好きなのか」


 忍の問いかけに、獅子戸は唇を噛み締める。

 手の甲で目を隠すようにして「うん」とうなずいた。

 彼女なりのプライドなのだろう。口だけは道化のように笑っていた。


「でも、もう、お終いだあ。しょうがないよね、それだけのことをしちゃったんだもの」


 忍はずっと言い出しあぐねていたことを、しかし、口にした。


「イエティには、何を言われたんだ」

「言いたくない」


 切り捨てるように獅子戸は答えた。


「それだけは、絶対に、言いたくない」


 言い切る強さに忍は口を閉じる。

 小鹿の前でも同じことを言えるのだろうかと思う。言うのかもしれない。

 恋する猿渡が手を汚すことになっても、譲れなかったのだから。


「……イエティに、心当たりは?」

「ないよ。連絡も向こうから一方的にされてた」

「連絡?」

「……机の中に手紙を入れられてた」

「その手紙は」

「焼いた」


 吐き捨てるように言う獅子戸に、忍は「そうか」と肩をすくめた。

 店内の注文カウンターを振り返ると、列の先頭に小鹿の姿が見える。


 なんとかいないうちに話を聞けてよかった。


 そう考えてから、忍は、違うか、と思い直した。

 小鹿はあらかじめ和寿妃とそういう約束を交わしていたのかもしれない。


「三輪」

「うん?」

「よく私と平気で話せるよね」


 いや別に平気ではない、と忍は答えようとした。

 人間ではないと思い込もうとしたところで限界はある。

 それでも、以前よりは耐性がついたからなんとか会話を続けているのだ。

 だが、獅子戸が言いたかったのは、そういうことではなかったらしい。


「わかってるの? 私、あんたのことを殺そうとしたんだよ」

「……花瓶は事故だろ」

「歩道橋は違う。私はあんたの口を封じようとしたんだ」


 獅子戸は挑みかかるような眼で忍を見た。


「これはイエティとかいうヤツの指示じゃない。あんたが死ねば、大柴も少しは大人しくなると思ったから、殺そうとした」


「そうか」と、忍はうなずいた。


「そうか、って……」

「だから、さっきも言っただろ。そんなことしたところで、和寿妃はおまえを」

「あんた自分がどうなっても構わないって言うの?」


 コン、と熊倉が外からガラスをノックする。

 獅子戸が興奮した様子を見せたからだろう。

 忍は首を振って心配ないと伝える。そのまま、獅子戸に答えた。


「死ぬよりひどいことなんていくらでもある」


 日が差してきた。窓の格子の影が忍の顔に落ちてくる。


「おまえもそれを知ってるから、イエティの脅迫に屈したんだろう」


 人の命より大事なものがあるから。そのためになんでもする。

 その衝動を忍は少しだけ理解できる。

 そして同時に、自分には一生為しえないことだとも思った。


 獅子戸はため息とともに吐き出した。


「あんた、頭おかしいよ。三輪」

「……おまえが言うのか?」

「そうだね……それもそうか」


 忍の不満そうな声に、獅子戸はくすんと音を立てて笑う。


「これ。悪いけど焼いておいてくれないかな」


 そう言って、一枚の紙をテーブルに置く。

 裏返されて複雑な折り癖がついてこそいるが、それは写真のようだった。

 忍に向かって押し出しながら、彼女は押し殺した声で言った。


「絶対に誰にも見せないで。お願いだから」

「でも、これ……」

「こんなこと頼める立場じゃないってこともわかってる。だけど本当に、無理なの。耐えられない。私、こんなに恥ずかしい写真を見られたら、もう、生きていけない。お願い。お願いだから」


 獅子戸が脅迫されていたことを示す、動かぬ証拠だ。

 一枚だけ焼かずに残しておいたのは自衛のためだったのだろうが――それを、誰にも見せるなと言う。もう覚悟を決めてしまっている。


「……わかった」


 突き出された写真に手を乗せると、獅子戸はまるで、憑き物が落ちたかのように脱力した。ぐったりと椅子にもたれかかり、唐突に笑う。


「いや……三輪ってさあ、ほんとに大柴以外の女に興味ないんだね」

「は?」

「いや、男子ってみんな私の胸とか、体とかめっちゃ見てくるけど、あんた全然そういうところないから。なんか気が抜けちゃったよ」


 忍は答えに窮した。

 人間の体が恐ろしいし、なんなら少し気持ち悪いなどと言える雰囲気では到底ない。

 獅子戸は「いいなあ、大柴」と嘆息した。


「自分以外の女に欲情しない男って貴重じゃんね。あんたがそういうやつで、私もなんか……救われた気がする……」


 それは忍にとっては、思ってもみない評価だった。

 男子更衣室で場の雰囲気を盛り下げることしかできないような自分でも、たまには人の役に立つことがあるらしい。

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