第14話 最大多数の最大幸福
翌日は不気味なほどに平和だった。
校舎に飾られていた花は、すべて前日のうちに撤去されたが――文化祭の飾りつけに華やいだ校内だ。
もしかすると、それと気づいた生徒のほうが少なかったかもしれない。
朝のうちはどことなく口数が少なかった二年二組の生徒たちも、授業が進むうちに明るさを取り戻した。
教室の二つの空席は埋まらずとも日は傾き、影は伸びていく。
和寿妃に、とりたてて変わった様子は見られなかった。
すでに犯人が名乗り出たのかどうかも、その凛とした佇まいからは読み取れない。
あの学級会は、事件を犯人と和寿妃の個人的闘争に変えた。
クラスメイトのほとんどはもはや事件と無関係のようなものだ。
おかげで文化祭準備や部活動、自分のなすべきことに集中することができた。
忍もその例外ではない。
昼休み、彼は一人、図書室を訪れた。
辞書、事典の並んだ書架で立ち止まると、屈んで一冊を抜き出す。
『幻想生き物なんでも事典』
■イエティ[yeti]
ネパールの少数民族「シェルパ」の言葉『岩』=イェ、『動物』=ティからこの名がついた。
19世紀後期、英大佐に足跡を発見され、広く知れ渡る。
ヒマラヤ山脈に住むといわれる、直立二足歩行、全身が長い毛で覆われた獣。
ズーティ、ミーティ、イエティの三種がいると言われ……
本を戻し、近くの書架をもう少し歩き回ってみると、点字の本が何冊かあった。
近隣に福祉系の大学があるためだろう。
すぐ横の壁に初心者講座のポスターが貼られている。
忍はそのうちの、もっとも簡単そうな一冊を取り、貸出カウンターに向かう。
担当の図書委員は見知った顔だった。
忍に気が付くと、ゲッという顔をしながら貸出処理をかける。
「おまえ点字なんか興味あんのか」
「…………」
「フン、無視かよ。失礼なやつ」
猿渡は貸出期限の紙を乱暴に挟むと、本をカウンターから押し出す。
忍は無言で受け取り、図書室を後にした。
午後からの文化祭準備でも、取り立てて人と会話することはなかった。
話しかけられても黙っていれば、基本的には放っておかれるものだ。
それも嫌なら、先に場を離れればいい。
買い出しが必要になったと言われた時、忍は一人で挙手した。
「ちょっと量があるけど、一人で大丈夫?」
三角巾を付けた牛木が心配そうに言ったのには無言でうなずく。
家庭科室から教室に寄り、内装チームにも買い物の有無を確認した。
すずらんテープとガムテープが追加になる。
辰雄から金を受け取り、指定の業務スーパーに行くことになった。
自転車、と少し思ったが、そう急ぐ買い物でもなかった。
周りから距離をおくためにも、歩いて行くことにする。
近くの商店街が秋祭りらしく、街中は珍しいような人混みだった。
目当ての品を買い求めた忍は、銀杏並木の臭いを避けて歩道橋を上る。
背中を強く押されたのは、下りに差しかかったその時だ。
来るとわかっていれば、手すりなしでも持ちこたえられるものだ。
忍は背中に当てられた手を速やかに捕まえる。
買い物袋の食い込んだ手首が痛い。
だがそれよりも胸が痛んだ。
忍は、こうなってほしくはなかった。
「もうやめよう」
忍は、ライオン――獅子戸 玲於奈の細い手を握りしめたまま言った。
「おれの身に何が起ころうと、和寿妃はおまえを諦めたりしない。必ず捕まえると言ったら、そうするんだ。あいつはなんでもできるんだから」
その獅子鼻の歪み方で、忍は彼女が奥歯を噛み締めるのがわかった。
とにかく事情を聞かなければならない。
獅子戸の手を引いて歩道橋を降りようとしたが、彼女は身もだえするように忍を振りほどこうとする。
混み合った歩道橋で、突然立ち止まる二人の高校生は、周囲から顰蹙を買う。
だが、それだけでは済まなかった。
高校生カップルが場所もわきまえずに戯れているように見えたのだろうか。
舌打ちとともに、獅子戸が後ろから肩をぶつけられた。
バランスを崩した獅子戸が急に降ってきて、忍は仰天する。
将棋倒し。
そんな惨事が目に浮かぶようで、忍は必死に受け止めた。
だが、ずり落ちた足は無情にも空を掴んだ。
「え」
荷物が重すぎる。
密着してくる獅子戸の女くささときたら、とんでもない。
おまけに悲鳴が甲高いので鼓膜がキンとする。
全身が総毛だつような浮遊感、だが、次いで来るはずの痛みは、ない。
チッと火を点けるような舌打ちを、忍は耳元で聞いた。
饐えたようなタバコの臭い。
それでようやく深く息をつけた。忍は、脱力して背後の男を呼んだ。
「熊倉さん」
「忍さあ……」
男――熊倉は巨躯に不似合いなかすれた声を漏らした。
「あんまり冷や冷やさせるんじゃねえよ、まったくもう……」
忍と獅子戸を、ぬいぐるみかなにかのように軽々と担いでしまう。
「ケガさせて和寿妃お嬢様に叱られるのはこっちなんだから」
熊倉は、息をするように愚痴を漏らしながら、スタスタと歩道橋を降りる。
軽い足取りに反して、彼の脇は冷や汗でじっとりと濡れていた。
「で、先生におかれましては、ご納得いただけたんですかね」
人通りの切れた歩道橋の下で、熊倉はぐいっと獅子戸を前に突き出した。
事の一部始終を、腕組みして見届けた小鹿に向かって。
「お人よしな忍の顔を立てて、和寿妃お嬢様が情けをかけてやって、それでもなお殺しにかかってくる生徒さんってわけです。いや、恐ろしい」
熊倉は淡々と言うが、獅子戸の方こそ、よほど恐ろしかっただろう。
頬を流れる涙でマスカラがすっかり落ちてしまっている。
小鹿は聞えよがしな溜め息をついた。
「残念です」
老眼鏡の奥でゆっくりと瞬きをして、そう呟いた。
「私は、生徒というものをこれまで誰一人として信用したことなどないし、これからもきっとそうなのですが、それはそれとして……あなたのことは、非常に残念ですよ。獅子戸さん」
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